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ブルーノ・ジャコメリ
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ブルーノ・ジャコメリ(Bruno Giacomelli 、1952年9月10日 - )は、イタリア出身のレーシングドライバー。ブルーノ・ジャコメッリと表記されることもある。
F1でのドライブ
マクラーレン時代
1977年イタリアグランプリに、マクラーレンよりスポット参戦してデビュー。翌1978年にもマクラーレンに所属するものの出場回数は5戦に留まる。
アルファロメオ時代

1979年、アルファロメオから4レースにスポット参戦した。翌1980年にはアルファロメオからフル出場を果たしたが、アルファロメオのマシンは信頼性に欠けリタイヤを繰り返した。最終戦のアメリカグランプリではリタイアしたものの、初のポールポジションを獲得した。1981年はかつてのワールドチャンピオンであるマリオ・アンドレッティがチームに加わったが、マシンの信頼性の欠如は続き最高位は最終戦のラスベガスグランプリで獲得した3位だった(これがジャコメリにとっての唯一の表彰台となった)。翌年もアルファロメオに在籍したが成績は低迷し、シーズン途中から新マシンを投入したことで完走率こそ上がったが、入賞はドイツグランプリでの5位1回のみにとどまった。
その後
1983年には新興チームトールマンへ移籍するも、非力なハートエンジンを搭載したマシンでは早さを見せることもなく、チームメイトのデレック・ワーウィックの9ポイントに対し1ポイントしか獲得することができず、この年をもってF1の世界から身を引くこととなった。
ライフでの復帰
1989年にはマーチのF1テストを行ったジャコメリは1990年第3戦より新興チーム、ライフのドライバーとしてF1への復帰を果たした。この時点で37歳であり、ネルソン・ピケ、中嶋悟と共に最年長F1ドライバーの一人となった。
ライフはW型12気筒エンジンを搭載し話題性はあったが性能が低く、予備予選を走行することすらままならないチームでのドライブを「晩節を汚した」と酷評するF1解説者もいたが、本人は楽しんでいたという。自身の人脈を使って苦境のチームにW型12気筒エンジンからジャッドV8エンジンへ変更する橋渡し役ともなった[1]。ただし、チームの財政状態は最悪の状態であり、ヨーロッパラウンドを回るのが精一杯であった。残り2戦を残したスペイングランプリの金曜日の朝、予備予選不通過をもって、今度こそ本当にF1ドライバーの経歴を終えることとなった[2]。
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レース戦績
要約
視点
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
全日本F2選手権
F1
BMW・M1 プロカー選手権
世界ツーリングカー選手権
アメリカン・オープンホイール
(太字はポールポジション)
CART PPGインディカー・ワールドシリーズ
世界耐久選手権 / 世界スポーツプロトタイプ選手権
(太字はポールポジション、斜体 はファステストラップ)
‡ 選手権ポイント対象外。
ル・マン24時間レース
全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権
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脚注
関連項目
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