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日本の安土桃山時代の武将、大名 ウィキペディアから
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将・大名。宇喜多氏の当主。通称は八郎、備前宰相。
宇喜多秀家像(岡山城蔵) | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 元亀3年(1572年) |
死没 | 明暦元年11月20日(1655年12月17日) |
改名 | 家氏(初名)→ 秀家 → 成元(号) |
別名 |
家氏、羽柴秀家、豊臣秀家 通称:八郎、備前宰相、号:成元、休復/久福 |
戒名 | 尊光院殿秀月久福大居士 |
墓所 |
東京都八丈町大賀郷の稲場墓地 丹船山薬王樹院東光寺(東京都板橋区板橋四丁目) 宝池山功徳院大蓮寺(石川県金沢市野町) |
官位 |
従三位・侍従、参議、左近衛権中将 権中納言 |
主君 | 織田信長→豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 宇喜多氏(羽柴氏、豊臣氏) |
父母 |
父:宇喜多直家、母:円融院 猶父:豊臣秀吉 |
兄弟 | 三浦桃寿丸(異父兄)、秀家、基家[注釈 1]、容光院ほか |
妻 | 正室:豪姫 |
子 | 秀高、秀継、貞姫、富利姫ほか |
父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏における、大名としての最後の当主である。豊臣政権下(末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始、秀吉に重用されており、豊臣一門としての扱いを受けていた。関ヶ原の戦いで西軍の主力の一人として敗れて領国を失うまで、備前岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。
「宇喜多秀家」はあくまでも歴史用語である。天正10年(1582年)の元服時には仮名として「八郎」、諱(実名)として「秀家」を名乗り、宇喜多家の家督を継承したが、宇喜多の名字が使われた記録は無い。天正13年の書状では「羽柴八郎」となっているが、その前年には後見人の羽柴秀吉から名字を省略されて「八郎殿」と称されており、名字の省略は大抵は同名だったことから既に「羽柴八郎」を称していた可能性が高い。天正13年の秀吉の関白就任に伴い豊臣姓を与えられ、侍従に任官して「羽柴備前侍従」を称し、その後昇進に伴い「羽柴備前少将」、「羽柴備前宰相」と改称し、関ヶ原の戦い時は「羽柴備前中納言」であった。同一文書内で「備前宰相」「浮田宰相秀家」と書かれたものも存在する(文禄元年)。文禄4年(1595年)の起請文では「羽柴備前中納言秀家」となっている。本姓を使った対天皇の格式名称としては「参議左近衛中将豊臣秀家」と署名した記録が残るほか(天正16年『聚楽第行幸記』)、嫡男「豊臣秀隆」の任官につき「備前浮田」「備前浮田息」と併記された文書も残っている[2]。
なお諱は戦場での名乗りや正式な文書の署名で仮名または百官名を併記して使うが、仮名は百官名を得るまでの仮(臨時)の通称であるため、百官名とは両立しない[3]。すなわち、当時の社会通念上、宇喜多秀家とか宇喜多備前中納言八郎秀家とは名乗らない。
直家の死後、宇喜多軍は信長の命令によって中国攻めを進めていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力した。ただし、秀家は幼少のため、叔父の宇喜多忠家が代理として軍の指揮をとった。また、戸川秀安や長船貞親、岡利勝(この3人は宇喜多三老と呼ばれた)ら直家以来の重臣たちが秀家を補佐した。
6月2日、秀家11歳のとき、本能寺の変で信長が死去する。このため、秀吉と毛利輝元は和睦することになり、秀家はこのときの所領安堵によって備中東部から美作・備前を領有する大名になり、毛利氏の監視役を務めることとなった。
元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、天正16年(1588年)以前に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする[4][5]。このため、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることになった。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは大坂城を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退した。
天正13年(1585年)3月、紀州征伐に参加したのち、四国攻めでは讃岐国へ上陸後、阿波戦線に加わった。
天正14年(1586年)、九州征伐にも豊臣秀長のもと、毛利輝元や宮部継潤、藤堂高虎とともに日向戦線に参加した。
天正15年(1587年)、秀吉より、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられた[6]。
天正18年(1590年)、小田原征伐に参加して豊臣政権を支えた。
文禄元年(1592年)、文禄の役では、大将として出陣し、李氏朝鮮の都・漢城に入って京畿道の平定に当たる。
文禄2年(1593年)1月、李如松率いる明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らとともにこれを破り、6月には晋州城攻略を果たした。
文禄3年(1594年)5月20日、朝鮮での功により、参議から従三位・権中納言に昇叙した(7月20日辞任)[7]。
慶長2年(1597年)、慶長の役では毛利秀元とともに監軍として再渡海し、左軍の指揮をとって南原城攻略を果たし、さらに進んで全羅道、忠清道を席捲すると、南岸に戻って順天倭城の築城にあたるなど活躍する。秀吉は明を征服後、秀家を日本か朝鮮の関白にしようとしていた。同時に、明の関白は豊臣秀次、九州には豊臣秀勝と述べている[8]。朝鮮出兵で悪化した財政を再建するため、領民に重税をしこうとして重臣の反発を招き、後述する御家騒動に繋がったとされている。
秀吉没後の慶長4年(1599年)、重臣だった戸川達安・岡貞綱らが、秀家の側近の中村次郎兵衛の処分を秀家に迫るも秀家はこれを拒否。中村は前田家に逃れ、戸川らが大坂の屋敷を占拠する、いわゆる宇喜多騒動が発生した。秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安としてその暗殺を図るが、秀家と対立していた従兄弟の宇喜多詮家(のちに坂崎直盛へ改名)が達安をかばって大坂玉造の自邸へ立て籠もるに至り、両者は一触即発の事態となる。騒動の調停は最初、越前敦賀城主の大谷吉継と、徳川家康の家臣である榊原康政が請け負ったが、康政は伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続けた結果、国許での政務が滞ることになった。そのことで家康より叱責を受け、康政は国許へ帰ることになる。秀家・戸川らの対立は解消されず、吉継も手を引いた結果、家康が裁断し、内乱は回避された。戸川らは他家で預かり・蟄居処分となり、花房正成は宇喜多家を出奔した。この騒動で戸川・岡・花房ら(代替わりはしていたが)直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去することになり、宇喜多家の軍事的・政治的衰退につながった。なお、上記の三名はこの後、家康の家臣となっている。
宇喜多騒動にはさまざまな要因がある。まず、秀吉が没して世情が不安定であった。秀家が自身に権力を集中するため、宇喜多家の執政であった重臣長船綱直や宇喜多家家臣としては新参者の奉行人中村次郎兵衛らを重用することに対するほかの重臣達の不満といった家臣団の政治的内紛があった。宇喜多家では仏教日蓮宗徒の家臣が多かったが、秀家は豪姫がキリシタンであったことから、家臣団に対し、キリシタンへの改宗命令を出したことなどもある[注釈 2]。
秀吉没後、後を追うように豊臣秀頼の後見役だった義父の前田利家が慶長4年(1599年)に死去すると、豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化した。これに乗じた五大老随一の実力者徳川家康が、豊臣政権下における影響力を強めることになった。そして清正ら武闘派七将による石田三成襲撃事件が勃発した際には、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出した。
慶長5年(1600年)、家康が会津征伐のため出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を総大将として、家康打倒のために挙兵した。秀家は西軍の副大将として、石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。伏見城の戦いでは総大将として参加し攻略、その後本隊と別れて伊勢国長島城を攻撃したのち、美濃国大垣城に入城し西軍本隊と合流した。関ヶ原の戦いにおいても西軍主力(西軍の中では最大の1万7,000人)として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋が東軍につき、西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。
秀家が西軍決起の発案者であるとの説がある。石田三成が大谷吉継に協力を求める前の7月1日、秀家が豊国社で出陣式を早くも行っていることをその根拠とする。なお、この出陣式に高台院(ねね)は側近の東殿局(大谷吉継の母)を代理として出席させており、ともに戦勝祈願を行っている。これにより、高台院が東軍支持だったという俗説には、主に白川亨により疑問が提示されている[要出典]。
関ヶ原の戦い後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。このとき、落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するが、五右衛門は秀家を自宅に約40日もかくまった(五右衛門の子孫は屋敷のあった場所に現在も居住し記念碑が建っている)とする話が伝わっている。秀家は京の太秦に潜伏、京都所司代の奥平信昌に発見されるが逃走に成功[9]。同じ西軍側であった島津義弘などを頼って薩摩国に落ちのび、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)にかくまわれた。後世の編である『常山紀談』では薩摩にのがれ剃髪して、成元さらに休復と号したとしている。このとき、秀家が島津氏に兵を借り、琉球王国を支配しようとしたという伝説が残っている。
しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。なお、身柄引き渡しの際に一緒についてきた家臣2名を島津家に仕官させるが、このうちの一人本郷義則は、薩摩の日置流弓術師範の祖、東郷重尚の最初の弓術の師匠となる。
島津忠恒ならびに縁戚の前田利長の懇願[注釈 3]により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉される[注釈 4]。慶長11年(1606年)4月、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった[注釈 5]。
八丈島では苗字を浮田、号を久福と改めた。『花房文書』『越登賀三洲志』によると、妻の実家である加賀前田氏や宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて(初期には秘密裏に、晩年は公に隔年70俵の援助を得ることが江戸幕府より許された)50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたと伝えられる。また、八丈島を所領としていた源(みなもと)家によく招かれ、宴を楽しんだ記録が残っている。源家は宗福寺の住職も兼ねているが、この寺院は宇喜多家の菩提寺である。
また、元和2年(1616年)に秀家の刑が解かれ、前田利常から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、秀家はこれを断って八丈島に留まったとも伝わる。
八丈島での生活は不自由であったらしく、『明良洪範』は、嵐のため八丈島に退避していた船に乗っていた福島正則の家臣に酒を恵んでもらったと伝える。このほか、八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった(あるいは飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして家族への土産にした)という話を、『浮田秀家記』『兵家茶話」が載せている。また、秀家が島で水汲女(現地妻)を置いたかどうかについては全くわかっていないが、その記録が一切ないことから水汲女を置かなかったと考えられている(『八丈島流人銘々伝』)。
明暦元年(1655年)11月20日、秀家は死去した。享年84。このときすでに江戸幕府第4代将軍徳川家綱の治世で、関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生きた。墓は東京都八丈町大賀郷の稲場墓地、前田家所縁の東京都板橋区板橋の東光寺、同じく石川県金沢市野町の宝池山功徳院大蓮寺などにある。法名は尊光院殿秀月久福大居士。正室・豪姫の法名は樹正院殿命室寿晃大禅定尼。
大名の宇喜多家は滅亡したが、秀家とともに流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え、のちに分家(浮田を称した)が3家興った。
明治以後、宇喜多一族は赦免となり、元・加賀藩主前田氏の庇護の下で東京(本土)の前田家の土地に移住したが、そのうち何名かは数年後に八丈島に戻った。この島に戻った子孫の家系が現在も秀家の墓を守り続けている。秀家が釣りをしていたと伝わる八丈島・大賀郷の南原海岸には、西(=備前国)を臨む秀家と豪姫の石像が建てられている。
八丈島には秀家を顕彰する団体「久福会」があり、岡山市や加賀藩の城下町であった石川県金沢市などと交流しながら秀家の供養などをしている[12]。
板橋区立美術館には、古くから秀家が描いたと伝えられる「鷹図」(画像、法鑑禅師賛)が所蔵されている。しかし、秀家が絵をよくしたという史料は残っていない。鷹は武人画家がしばしば手がけた画題であり、画中のS字型に屈曲した枝は李朝絵画によく見られる描法であることから、秀家が朝鮮出兵した史実と重ねられていると考えられる[13]。
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