トップQs
タイムライン
チャット
視点

浜田光夫

日本の俳優(1943−) ウィキペディアから

浜田光夫
Remove ads

浜田 光夫(はまだ みつお、1943年昭和18年〉10月1日[2][3][4][5] - )は、日本俳優日活の黄金期を支えた看板俳優の一人。本名は浜田 斌(はまだ あきら)[4][5]

概要 はまだ みつお 浜田 光夫, 本名 ...

東京都[2][3]牛込区(現・新宿区白銀町出身[4]。玉川学園小学部、中学部、高等部卒業[6]日本大学芸術学部[2][3]中退[7]アートプロモーション所属[8]

Remove ads

来歴

要約
視点

父は生後1ヶ月のときに結核で死去、母の手ひとつで育てられる[9]。生まれた当初つけられた名前は「斌(あきら)」であったが、後に姓名判断に凝っていた母の薦めで、知人により「光曠」と改名された[10]。戸籍名は「斌」のままである[10]

小学生のときに、兄弟のいない息子を気遣った母の計らいで、バイオリン教室へ通うことになる[11]。また、当時通っていたバイオリン教室の生徒が出演していた音楽映画『ここに泉あり』にその生徒のうちの1人として出演している[12]。習いたての生徒がバイオリンを弾くシーンで、わざと下手な真似をして弾くというのがよく飲み込めなかったという。その腕前は『父と娘の歌』、『日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章』で見ることができる。

小学校6年生のときに、日本橋三越劇場にて公演『ピーター・パン』を見て興味を持ち楽屋を訪問すると、「来週から来なさい」と言われたことがきっかけで劇団東童に入団[13]1955年劇団民藝若杉光夫監督に見いだされ、『石合戦』に主役の少年で出演[5][14]。『石合戦』に出演する少し前に、バイオリン塾でレッスン中に見事なおならをしてしまい、先生から「バイオリンより良い音が出たね」と言われ、それまでのレッスンと月謝が無駄だったと非常なショックを受け、以後は演劇に力をいれはじめるきっかけとなった[12]。中学3年生のときに劇団四季の『永遠の処女』(演出・浅利慶太)、NHKの民藝ユニット作品『メリイクリスマス』(演出・若杉光夫)にも重要な役で出演する。

本格デビュー

玉川学園高等部在学中の1960年、若杉監督の勧めで『ガラスの中の少女』のオーディションを受け、吉永小百合と初共演[5][15]玉川学園卒業後、高橋英樹と共に日本大学藝術学部へ進学[6]。同年、日活に入社し本格デビュー[3]1961年に『この若さある限り』より、若杉監督から「光夫」の名前をもらい芸名を浜田光夫と改める[5]

その後、数多くの日活映画に出演。吉永小百合のほか、和泉雅子田代みどり松原智恵子松尾嘉代太田雅子(現・梶芽衣子)など若手女優陣らとも共演する。

吉永小百合との日活純愛路線

Thumb
吉永小百合と浜田(1965年)
Thumb
週刊明星』1963年4月21日号の新聞広告

従来のアクション路線がマンネリ化していた日活にとって、浜田・吉永コンビの純愛路線は多くのファンの支持を集め爆発的人気となった[3]日本大学芸術学部に入学後も、数多くの主演作でハイティーン・スターとして売り出す[3]。浜田の目は、その美しさから“バンビの目”と称された。なお、大学は2年で中退している[7]

浦山桐郎監督の『キューポラのある街』(1962年キネマ旬報ベスト・テン日本映画第2位)、純愛路線の決定版である中平康監督の『泥だらけの純情』、またベストセラーを映画化し興行的に大ヒットした『愛と死をみつめて』(1964年日本映画興業成績第2位)など話題作に次々出演し、吉永小百合と共にトップスターとしての地位を確立する[5]。また当時の人気作家であった石坂洋次郎三島由紀夫など文芸小説の映画化作品が次々と創られた。

浜田・吉永コンビの映画作品は最盛期に1ヶ月に1本のペースで封切られ、2人は1年で顔を合わせない日は数日だったという忙しさであった[16]。吉永とのコンビ映画は44作品にのぼる[17]

その他の出演作

吉永をはじめとする青春映画以外に社会派映画などにも出演。浦山桐郎監督の第二作『非行少女』では、和泉雅子とコンビを組んだ[18]。『キューポラのある街』と同様に高い評価を得、モスクワ国際映画祭金メダル賞を獲得[19]。その他『大人と子供のあいの子だい』、『煙の王様』、『サムライの子』など当時の社会情勢をテーマにした映画に出演した。

右眼負傷とイメージチェンジ

1966年7月25日、名古屋市女子大小路サパークラブで仕事終わりに葉山良二らと飲んでいると、酔った客が絡み出し、突然、電気スタンドで葉山を襲撃した[20]。そして葉山の隣にいた浜田の右目に電気スタンドのガラスの破片が直撃し、右目が全く見えなくなってしまう[20]。ガラス片が黒目を直撃した上、レンズ部分の水晶体に到達し、眼球破裂水晶体を保護する「房水」が流出していた。名古屋大学医学部附属病院に救急搬送され、即手術、入院ということになる[21]。もう何時間か遅れていたら、完全失明は免れないという状況だったという[21]。黒目を0.3mm間隔で32鍼縫い上げる眼球縫合手術が行われ、失明の恐怖に耐えながら8時間、奇跡的に失明は免れた。

このアクシデントを受け、当初吉永とのコンビで出演予定であった『愛と死の記録』は急遽、渡哲也が代演することとなった[22]

8か月の入院生活を終え、1967年3月に退院[22]。手術で視力は取り戻したものの、黒目に白い傷跡が残った。その傷跡を隠すために、サングラスをかけ仕事を再開した浜田だったが、後遺症でライトの前では目を開けているのさえ困難であった。翌年、日活オールスターが友情出演した『君は恋人[注釈 1]で復帰するが[5]、右目負傷の影響からその後は眼を保護するためにスモークやハーフトーンのサングラスが必需品となった[注釈 2]。こうしてイメージチェンジを余儀なくされ、『涙の季節』『いちどは行きたい女風呂』でのコミカルな役柄など、次第に従来とは異なるバイプレーヤー的な俳優へと転向する。この時期、浜田の支えとなったのは、のちに妻となる青園宴だった[23]高橋英樹宝塚歌劇団のファンだったことから、高橋の付き添いで宝塚歌劇を鑑賞することになり、宝塚歌劇団生徒の溜まり場となっていた洋菓子喫茶アマンドで青園と知り合う[24]。失明騒動の後、目にコンタクトレンズを入れて撮影を行っていたため炎症を起こしてしまい、大阪大学医学部附属病院に入院することになった際、身の回りの世話をしてくれたのが青園だったという[25]。青園の励ましを受け、目の完治を諦めず4度もの手術を決行。暴行事件から7年、ついに目は完治した。

歌手として

日活映画の主題歌、挿入歌を中心に、テイチクレコードから数多くのレコードを発売。中でも1963年に発売した三条江梨子とのデュエット「草笛を吹こうよ」がヒットした[26]。1967年には東芝レコードから映画復帰作主題歌「君は恋人」を発売している。

日活退社後から現在

日本映画の衰退とともに日活を退社し石原プロに移籍[27]。またテレビドラマにも進出。1970年、テレビドラマ『お荷物小荷物』(朝日放送製作、TBS系)で、小言屋だが肝心な時には頼りない5人兄弟の次男・滝沢義を演じ、コミカルな演技で新境地を開拓した[注釈 3]

同作の脚本だった佐々木守と意気投合し、この後、岡崎友紀主演の“18歳シリーズ”や特撮ヒーロー番組『アイアンキング』など、1970年代前半に佐々木が執筆または関係したテレビドラマの常連的存在となっている。その後は悪役からバラエティ番組、情報番組のコメンテーターもこなすバイプレーヤーとして多くの舞台、テレビ、講演など幅広く活躍している。代表的な作品として1980年の映画『天平の甍』、2004年の映画『1リットルの涙』など。

2012年9月18日発売の「女性自身」(2012年10月2日号)に妻・恭美子の手記が掲載された。浜田は日活時代から日常的に飲酒を欠かさない生活だったが、年齢と共に飲酒量が増えた。2010年1月に胃の裏側や背中の激痛を訴え緊急入院。急性膵炎の診断を受け一命を取り留めたことをきっかけに、夫婦二人三脚で生活改善に努めていることを明らかにしている[17]

2012年10月18日Amebaブログ内に自身のオフィシャルブログ「青春日和」を開設。

2016年、第25回日本映画批評家大賞・実写部門 ゴールデン・グローリー賞を受賞[29]

Remove ads

人物

趣味は、ゴルフ[30]

1972年1月6日ハワイで結婚[31]。妻は宝塚歌劇団に在籍した宝塚歌劇団52期生の元タカラジェンヌで、宝塚歌劇団卒業生の青園宴(本名・浜田恭美子)[32]。娘が2人いる[33]。長女は2005年2月13日玉川学園の同窓生だったひばりプロダクション社長・加藤和也と結婚[34][35]。浜田と加藤は舅と婿の関係となった。

同級生には円谷英二の三男・円谷粲や、後に『アイアンキング』の主題歌を担当する子門真人がいた[5]

テレビに出演するようになってからは『お荷物小荷物』で初めて手応えを感じ、脚本を手がけた佐々木守を敬愛するようになった[5]。『アイアンキング』への出演は、佐々木が脚本を手掛けることから即断したという[5]。浜田が佐々木のことを認識したのは『お荷物小荷物』からだが、それ以前に映画『非行少女』で佐々木から方言指導を受けていた[5]

出演

要約
視点

※太字は主演

映画

Thumb
ガラスの中の少女』(1960年)
Thumb
キューポラのある街』(1962年)
Thumb
赤い蕾と白い花』(1962年)
Thumb
非行少女』(1963年)
Thumb
青い山脈』(1963年)
Thumb
若い東京の屋根の下』(1963年)
Thumb
愛と死をみつめて』 (1964年)

テレビドラマ

オリジナルビデオ

  • 新・うれしはずかし物語 週末のシンデレラ(1991年、にっかつビデオ
  • スウィートルーム2(1993年、にっかつビデオ)

舞台

  • 闇に咲く花(1989年、こまつ座
  • 民謡・秋田おばこ物語 貞子(1995年、プロデュースセンター)
  • 喜劇・SANADA(2001年・2002年、新宿コマ劇場) - 真田幸村
  • 美空ひばり物語(2001年、コマ・プロダクション) - 加藤増吉
  • わだばゴッホになる 棟方志功物語(2003年、コマ・プロダクション)
  • 晴れのちくもり時々涙…(2003年、劇団民藝) - 柿崎太一
  • 不死鳥ふたたび 新・美空ひばり物語(2003年 - 2004年、コマ・プロダクション) - 加藤増吉
  • 新章・美空ひばり 不死鳥伝説(2005年、御園座
  • ジパング(2005年、御園座)
  • 地球は何処へ(2008年、国連クラシックライブ協会)
  • 生きる(2014年 - 2018年、BMCエンタープライズ)
  • 五木ひろし特別公演 / めおと囃子(2015年、明治座
Remove ads

音楽

要約
視点

シングル

さらに見る 発売日, 規格 ...

アルバム

Remove ads

著書

  • 『言っちゃおうかな ― 日活!イカした仲間の面白ばなし』(1984年、日之出出版 ISBN 4891980400
  • 『青春 浜田光夫 『キューポラのある街』―あれから50年』スタート(発行)、展望社(発売)、2012年7月14日。ISBN 978-4885462436

脚注

参考文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads