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日本の歴史学者 ウィキペディアから
護 雅夫(もり まさお、1921年〈大正10年〉3月30日 - 1996年〈平成8年〉12月23日)は、日本の東洋学者・歴史学者。専攻はトルコ民族史・内陸アジア史・トルコ学[5]。東京大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。日本学士院会員。
滋賀県長浜町(現長浜市)真宗大谷派一心寺 11世住職 釋雅亮・春枝の長男として生誕[3][注 3] 。旧制県立虎姫中学校(現:滋賀県立虎姫高等学校)から1938年第三高等学校文科甲類へ入学、「自由寮」での寮生活を始める[7][注 4]。
1941年東京帝国大学文学部東洋史学科入学、1943年9月卒業[注 5]と同時に同大大学院入学即日休学、10月に三期兵科予備学生として広島県江田島の海軍兵学校に入校、同年末まで教育・訓練をうけ[注 6]、1944年より海兵教官として国史を担当する[11]。
1945年3月中尉任官、8月敗戦、9月復員後大学院に復学し、和田清により特別研究生に採用される[12]。1946年3月に前田直典の提唱により組織された北方史研究会主催の柴田武(当時は言語学科助手)による現代トルコ語講習会に参加 [注 7]。ペルシア語、ロシア語、モンゴル語も学ぶ[13]。在学中は和田清、榎一雄から指導を受ける。
1948年9月(27歳)、和田清の推挽により北海道大学法文学部助教授に任ぜられるが、同時に内地研究員として東京大学文学部東洋史研究室で蒙古史研究に従事し、翌年赴任する[3][17]。北海道網走市モヨロ貝塚での東大と北大の合同発掘調査が1947年、1948年、1951年に行われ、護も1951年の発掘調査に参加した[18]。
1956年5月(35歳)、朝鮮史講座担当として東京大学文学部助教授に着任する[18]。
1958年3月-1959年10月、山本達郎の推輓により[19]ロックフェラー財団研究員として[20][21]トルコ(アンカラ・イスタンブル両大学)[注 9] とドイツ(ハンブルク大学)へ留学。
イスタンブル大学ではラフメティ・アラト[注 10]・ゼキ・ヴェリディ・トガンの講筵に列し、アンカラ大学のバハーエッディーン・オゲル助教授と共同で研究をした。ハンブルク大学のフォン・ガベン[注 11]からも古代テュルク語の個人教授を受ける[24][26]。
1962年、東京大学より文学博士の学位を取得 (学位請求論文:「古代北アジア遊牧民族史の研究」) [27]。
1963年、松田壽男らにより再建された「日本イスラム協会」の評議員・理事をつとめる[28]。
1966年3月-5月には交換教授としてレニングラード大学 東洋学部、旧ソ連科学アカデミー所属アジア諸民族研究所で古代トルコ民族史の講義・講演を行う [21][29]。
1968年4月(47歳)、東京大学文学部教授に昇任し、「北アジア史について幾多の貢献をした。その主な論文は『古代トルコ民族史研究 I』に収められている」[18]。1970年に日本学士院賞を受賞する。
1976年、イスタンブル大学 文学部より招きをうけ、9月より1年間、トルコ民族史・古代テュルク語・アジア史(日本史を含む)などについてトルコ語で講義とゼミナールを行う[30][注 12]。さらに大学での講義に加え、トルコ・日本婦人友好文化協会の要請によりイスタンブル総領事館一室で日本語講座を開く[32]。
1981年4月東京大学を定年退官、5月名誉教授の称号を受ける[3]。同年6月より東洋文庫理事に就任[33]。1981年4月 - 1991年3月、日本大学文理学部教授に就任、定年による退職後も非常勤講師として出講した[34]。
この間、1982年3月-5月日本学術振興会の援助を得てアンカラに滞在し、梅村坦とともに「日本学術振興会 西アジア地域研究センター」の再建・設立に携わる[3][35][注 13]。1986年8月、ハンブルクでの第32回 国際アジア・北アフリカ研究会議(ICANAS)に日本学術会議と東方学会を代表して参加[36][注 14]。同年9月には、トルコ アンカラ大学に日本学科を開設する任務を帯び、国際交流基金・日本大学から派遣され、1年間客員教授をつとめる[注 15]。北アジア史、シルクロード史とともに、日本史・文化入門、日本語講義を担当した[39]。
1992年12月(71歳)日本学士院会員となる。選定にあたり日本学士院は、専攻学科目として、それまでになかった「トルコ学」部門を新設しその研究領域とした[41][42][43][注 16]。
(1980-1981)史学会理事長、(1981-1986)東洋文庫附置ユネスコ東アジア文化研究センター所長、(1985-1988)日本学術会議 第13期会員、(1985-1991)東方学会 理事長[44]、(1986-1990)東洋文庫研究部長[45]、(1987-1993)中近東文化センター理事長、トルコ共和国科学アカデミー(アタテュルク文化センター)名誉会員、 古代オリエント博物館理事、日本中国文化交流協会常任理事、出光美術館評議員、東方学会 評議員、内陸アジア史学会顧問などを歴任する[3][5][46]。
門下生に佐藤次高[47]、鈴木董[48]、森安孝夫[49]らがいる。
晩年は神奈川県藤沢市に居住し[50][51][注 17]、約6年におよぶ闘病生活の間も執筆活動は続けたが[52] [53]、1996年12月肺炎のため相模原市の病院で没した[3]。没後同日づけで正四位に叙せられる[5][54]。
没後、トルコ人作家アズィズ・ネスィン[注 19]の作品、加えてネスィンのインタビュー記事[注 20]の翻訳原稿がみつかり林佳世子、粕谷元[注 21]、新井政美らが「出版のための体裁を整え」[57]、2013年に藤原書店より『口で鳥をつかまえる男』として刊行された。
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