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XDS・アスタナ・チーム

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XDS・アスタナ・チーム
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XDS・アスタナ・チーム (XDS Astana Team) は国際自転車競技連合 (UCI) の主催するUCIワールドツアーに参加する自転車ロードレースのワールドチームである。

概要 チーム情報, UCIコード ...

歴史

要約
視点
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アレクサンドル・ヴィノクロフ
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アルベルト・コンタドール
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ランス・アームストロング
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ヴィンチェンツォ・ニバリ

アスタナ・ウルトからアスタナサイクリングチームへ

2006年5月、ロードレース界を震撼させたドーピング疑惑事件、通称オペラシオン・プエルトの結果、ロードレースチームであるリバティー・セグロス(スペイン)のマノロ・サイス英語版監督と医師が薬物違反容疑で逮捕された。この影響でリバティー・セグロスのメインスポンサーが撤退してチームの存続が危ぶまれた。しかし、チームのエースであったアレクサンドル・ヴィノクロフがカザフスタン人であり、さらに当時のカザフスタン首相ダニヤル・アフメトフがカザフスタン自転車連盟の総裁も務めていたことからカザフスタン政府が新たにメインスポンサーとなった(実際にはカザフスタンの複数企業が出資)。リバティー・セグロスは新たなチーム名にカザフスタンの首都であるアスタナの名を冠した「アスタナ・ウルト」としてこの年のUCIプロツアーに参加し、ヴィノクロフはアスタナ・ウルトで同年のブエルタ・ア・エスパーニャを制した。チームカラーはカザフスタンの国旗に用いられているものと同じ青色である。

アスタナ・ウルトチームに与えられたUCIプロツアーライセンスは2006年限りで剥奪される見通しとなった。自国の英雄であるヴィノクロフをサポートするため、カザフスタン政府はスイスを本拠地とする新チーム「アスタナ」を設立し、2007年よりUCIプロツアーに新規参入を果たした。これが「チーム・アスタナ」の公式の出発点である。この頃、カザフスタンは資源大国として潤沢な国内資金を持っていたため、UCIプロチーム設立資金の調達はさほど難しいことではなかった。

新チームには、ヴィノクロフをはじめとするアスタナ・ウルトの一部の選手が移籍した。

再度のドーピング禍

アスタナは2007年のUCIプロツアーでも上位を窺う有力チームの一つに数えられていたが、同年のツール・ド・フランス中にヴィノクロフ本人に血液ドーピング疑惑が発生し、ツール・ド・フランスからチーム全体が撤退。さらに主力選手の一人であるアンドレイ・カシェチキンにもレース外抜き打ちドーピング検査で陽性反応が認められたことなどを受け、以後のUCIプロツアーへの参加を自粛する事態となった。

これにともない選手への夏以降の給与未払いなども生じていたが、チームは2008年シーズンも運営母体を大幅に変更した上での活動継続を決定。チームの拠点をルクセンブルクに移した上で、チームディスカバリーチャンネル(2007年シーズンをもって解散)からアルベルト・コンタドールリーヴァイ・ライプハイマー、監督のヨハン・ブリュイネールをはじめ多数の有力選手やスタッフを受け入れた。また、チーム内に厳しいドーピングコントロールの機構を設けた。

ツール・ド・フランスからの排除とジロ・デ・イタリア制覇

コンタドール、ライプハイマーら有力選手を獲得して2008年に臨んだアスタナであったが、ツール・ド・フランス主催者のASOは前年のドーピング事件を理由にツール・ド・フランスを始めとした自らの主催レースからアスタナサイクリングチームの排除を決定(アモリ・スポル・オルガニザシオン#譲れないツール・ド・フランス主導権参照)。ディフェンディングチャンピオンであるコンタドールはツール・ド・フランス欠場を余儀なくされた。また、ジロ・デ・イタリアの主催者RCSスポルトも同様の方針を取ったため、春先のクラシックレースを始めとしたビッグレースのいくつかに出場できないという事態となり、グランツールも出場可能なのはブエルタ・ア・エスパーニャのみと思われていた。しかし、4月に入りバスク一周でコンタドール、ツール・ド・ロマンディアンドレアス・クレーデンが総合優勝するなど、UCIによって出場の認められていたUCIプロツアー2008のレースで活躍すると、4月末にはジロ・デ・イタリアへの出場が急遽決定。コンタドールは事前の調整不足を囁かれていたが、いざレースが始まると尻上がりに調子を上げ、リカルド・リッコダニーロ・ディルーカとの死闘を制してジロ・デ・イタリア総合優勝を成し遂げた。

コンタドールのグランツール全制覇とアームストロングの加入

チームは2008年のブエルタ・ア・エスパーニャに満を持して強力な陣容で挑み、中盤以降はコンタドールとライプハイマーが総合の1位と2位をがっちりと抑える展開となった。そのままレースは20ステージの個人タイムトライアルになだれ込み、コンタドールとライプハイマーがチーム内で総合優勝を巡って真剣勝負を繰り広げるという珍事が発生。しかしコンタドールは総合首位を守り切り、見事にジロ・デ・イタリアとブエルタ・ア・エスパーニャのダブルツールを成し遂げた。またコンタドールは前年のツール・ド・フランス制覇と合わせ、14か月の間に三大ツールを勝つという大記録を打ち立てることとなった。

一方、このブエルタ・ア・エスパーニャ開催中にはランス・アームストロングが現役復帰を表明。チーム・アスタナのゼネラルマネージャーであるブリュイネールは、かつてアームストロングが所属してツール・ド・フランス7連覇を達成したUSポスタルサービス・チーム及びチーム・ディスカバリーチャンネルの監督としてアームストロングの7連覇[3]を支えたことから、アームストロングのチーム・アスタナ加入が噂された。9月25日にチーム・アスタナから正式にアームストロングの加入が発表された[4]

チーム存続の危機

2009年、世界的な不況の煽りを受けてカザフスタンのいくつかのスポンサー企業からの支払いが滞り(これらの企業では従業員の給与支払いもできていなかった)、ジロ・デ・イタリア開催中にチームジャージから多数のスポンサー名が消えた(実際はごく薄くプリントされていた)という事態になった。5月31日までに選手の給与の保証金がUCIに支払われなければチームはプロツアーチームのライセンスを取り消される危機にあった。

結果的には、6月初めにまでもつれ込んだ支払期限までに保証金が支払われ、チームはひとまず存続の危機を乗り越えた。6月3日から行われたツール・ド・ルクセンブルクにはスポンサー名の入ったジャージで出場し、6月9日のドーフィネ・リベレ第3ステージで正式にジャージのスポンサー名が復活した。

ツール・ド・フランス制覇とヴィノクロフの復帰表明

2009年のツール・ド・フランスには、コンタドール、アームストロングに加え、クレーデンやライプハイマーといった強力な布陣を擁して出場。第4ステージのチーム・タイムトライアルを制したほか、コンタドールは総合優勝、アームストロングは総合3位に入る大活躍を見せた。

しかし、ツール・ド・フランス直前にヴィノクロフがアスタナでの現役復帰を記者会見で表明したことを受け、ブリュイネールは今シーズン限りでの辞任を表明。アームストロングはラジオシャックをメインスポンサーとする新チームの発足を発表し[5]、コンタドールはF1ドライバーフェルナンド・アロンソの作る新チームへ移籍するという内容が報道される[6]など、まだ安泰とは言えない資金問題とともに、チームの将来は不透明なものとなった。

プロツアーライセンス消失の危機

アームストロングがチーム・レディオシャックを立ち上げると、監督のブリュイネール他ほとんどのメンバーが追随し移籍を発表するか、移籍が濃厚となった。残るのは以前のエースであるヴィノクロフ、そしてヴィノクロフとの二頭体制を嫌って自身もチームを離れたかったが契約期間の関係で移籍が困難なコンタドール、さらに少々のアシスト陣のみという形になった。

このような状況や、期日までに必要な書類が提出されなかったことを受け、UCIは2009年10月20日にライセンス更新を保留することを発表。コンタドールの契約条件には「プロツアーチームであること」が明記されていたため、もしチームのライセンスが更新されないとなると契約終了となって移籍可能になり、ヴィノクロフ以外にエース格の選手がいないチームとなる状況であった。こうした中、パオロ・ティラロンゴダビ・デ・ラ・フエンテのアスタナへの移籍が報じられた。

その後もライセンス更新は何度も保留が続いていたが、11月26日にようやくUCIから許可が発表され、コンタドールの残留も確定。新たにオスカル・ペレイロの移籍も確定した。

2010年

ジロ・デ・イタリアにはヴィノクロフをエースとして出場。落車の頻発した序盤においてヴィノクロフを落車から守り、横風区間でペースを上げてライバルを苦しめるなど、チームとして協調した走りを見せた。ヴィノクロフはレース前半においてマリア・ローザを着用した。

ツール・ド・フランスにはコンタドールをエースとして出場。ヴィノクロフはアシストをこなしつつステージ優勝を挙げ、山岳ステージではアシスト陣が集団をコントロール。当初不安視されたチーム力不足やヴィノクロフとコンタドールの確執による混乱は杞憂に終わり、コンタドールは総合優勝を果たした。

ツール・ド・フランス終了後、コンタドールが来シーズンにビャルヌ・リースが監督として指揮するチームへ移籍することが報じられた。

2011年

コンタドールがサクソバンク=サンガードへ去り、新加入戦力としてはロマン・クロイツィガーロベルト・キセルロヴスキを獲得。シーズン中はヴィノクロフ、クロイツィガーの他にヴァレンティン・イグリンスキーパオロ・ティラロンゴらがステージ勝利を挙げたが総合優勝はなかった。

2013年

ヴィンチェンツォ・ニバリが移籍加入し、ジロ・デ・イタリア総合優勝を挙げた。

2014年 

UCIは10月に同年のツール・ド・フランス終了後の8月1日に行われたドーピング検査でマクシム・イグリンスキーのサンプルからEPOが陽性になったことを発表した。また、同年のエネコ・ツアーの期間中の8月11日に行われた同じくアスタナに所属するマクシムの弟であるヴァレンティン・イグリンスキーのサンプルからもEPOが陽性になったことを併せて発表した[7]

アスタナはひと月で2名のドーピング陽性者を出したことで加盟しているMPCCのルールに (UCIの規則とは異なり強制力がある訳では無いものの) 従い、ツアー・オブ・北京から撤退し、内部調査を行った[8]。また、UCIからは再発防止策の見直しを行うことと、事の次第ではライセンスにかかわる旨を通告された[9]

2017年

ニバリやディエゴ・ローザが他チームへ移籍[10]

4月22日、ジロ・デ・イタリアでエースを務める予定であったミケーレ・スカルポーニを交通事故で失った[11]

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使用機材

アスタナ・ウルト時代の2006年はBH, 2007年はBMCフレームカンパニョーロコンポーネントを組み合わせて使用した。

2008年はトレック社の最高級レース用フレーム「マドン」にボントレガーホイールSRAM社のコンポーネント「レッド」を使用した。

2010年シーズンはエースであるコンタドールが個人的にスペシャライズドと契約を結んだため、それに従いスペシャライズドのTarmacSL3となり、ホイールはZIPP, コンポーネントは引き続きSRAM社の「レッド」を使用し、SRMパワーメーターに接続されたスペシャライズドFACTカーボンクランクセットが装備された。ハンドルバーとシートポストはFSA, サドルはセライタリアを使用。

2012年シーズンからホイールがZIPPからフランスの「コリマ」に変更された。2013年より、コンポーネントがSRAM社から再びカンパニョーロに変更。最高級グレードのスーパーレコードEPSが用いられたが、あえて機械式を選択する選手もいた。

2017年より、スポンサーバイクがアルゴン18、コンポーネントがシマノに変更。この他スペシャライズドから供給されていたサドル、シューズ、クランクセットも変更されている。ホイールは当初ヴィジョンに変更されていたが、前年同様コリマに戻っている。

2020年より、スポンサーバイクはウィリエール・トリエスティーナに変更。

2025年シーズンから中華人民共和国のメーカー喜德盛のブランドであるX-LABのバイクを使用する。

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主な戦績

2007年

2008年

2009年

2010年

2011年

2012年

2013年

2014年

2015年

2016年

2017年

2018年

2019年

2020年

2021年

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チーム変遷

  • 1989年 - 1998年:オンセ
  • 1999年 - 2000年:オンセ・ドイチェバンク
  • 2001年 - 2003年:オンセ・エロスキ
  • 2004年:リバティー・セグロス
  • 2005年 - 2006年:リバティー・セグロス・ウルト
  • 2006年:ウルト・チーム
  • 2006年:アスタナ・ウルト・チーム
  • 2007年 - 2008年:アスタナ・プロチーム

※2006年以前と2007年以降は別組織(アスタナ・ウルトは2006年シーズン終了後に名義上解散)。

2022年陣容

2022年6月20日更新
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脚注

関連項目

外部リンク

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