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クリフ・リー

アメリカの野球選手 (1978 - ) ウィキペディアから

クリフ・リー
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クリフトン・ファイファー・リーClifton Phifer Lee, 1978年8月30日 - )は、アメリカ合衆国アーカンソー州ベントン郡出身の元プロ野球選手投手)。左投左打。

概要 基本情報, 国籍 ...

2000年代後半から2010年代前半のMLBを代表する投手の1人である。

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経歴

要約
視点

プロ入り前

短大時代の1998年ドラフト20巡目(全体609位)でボルチモア・オリオールズに指名されたが[1]、契約せず[2]、地元アーカンソー州アーカンソー大学に進学した。

プロ入りとエクスポズ傘下時代

2000年MLBドラフト4巡目(全体105位)でモントリオール・エクスポズに指名され[3]、契約[2]。まず、マイナーリーグ A級のケープフィア・クロックス英語版に所属した。

2001年マイナーリーグ A+級のジュピター・ハンマーヘッズで21試合(先発20試合)に登板し、6勝7敗、防御率2.79を記録。

2002年はマイナーリーグ AA級のハリスバーグ・セネターズで15試合に登板し、7勝2敗、防御率3.23を記録。

インディアンス時代

2002年6月27日にグレイディ・サイズモアブランドン・フィリップスリー・スティーブンスと共にバートロ・コローンの交換要員としてトレードクリーブランド・インディアンスへ移籍[2]。AA級のアクロン・ラバーダックスに所属し、ほどなくしてAAA級のバッファロー・バイソンズに昇格。9月15日にメジャーデビューを果たし、6回途中まで投げ、4四球を与えたものの、被安打2、自責点1に抑えるもチームが1点も援護できずに敗戦投手となった[4]

2003年は6月30日のダブルヘッダー第1戦でメジャー初登板し、6回2失点(自責点0)と好投したものの、すぐにマイナーリーグ降格となった。その後、8月16日から先発ローテーションに入って8試合に登板した。このシーズンは9試合に登板して3勝3敗、52.1で防御率3.61と一定の成果を挙げた。マイナーリーグでは主にAAA級バッファロー・バイソンズで登板し、そこでは11試合で防御率3.27の好成績を維持した。

2004年は開幕から好調で、5月末では10試合に登板し、5勝0敗という成績を残していた[5]。しかし、6月に入ると月間防御率が5点台にまで落ち、7月と8月は月間防御率が7点台で、6月以降の23試合で被本塁打は28本[5]。最終的にはチーム最多タイの14勝でシーズンを終えたが、防御率は5.43で、自身のキャリアで最低の与四球率4.1という不安定な内容だった。

2005年、かつては右打者を苦手としていたが、カット・ファスト・ボールで抑えられるようになった[6]。18勝(リーグ2位)5敗、防御率3.79などを記録し、サイ・ヤング賞の投票では4位だった[7]。勝率リーグ1位(.783)は球団史上、1951年のボブ・フェラー以来であった[8]

2006年、球団とリーは契約延長の交渉をスプリングトレーニング中から進めていたが、交渉がまとまらずに開幕を迎えた[9]。5月に6試合で1勝4敗と調子を崩したが、6月は5試合で4勝と持ち直し、最終的には2005年ほどの数字は残せなかったものの、チーム2位の14勝を記録した。8月には2007年から3年総額1400万ドル、4年目の2010年は800万ドルの球団オプションで契約延長した[9]

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インディアンス時代のリー(2008年)

2007年、スプリングトレーニングで左脇腹を痛め、開幕を故障者リスト入りで迎えた[10]。5月3日にメジャー復帰を果たしたが、制球が悪く[10]、7月16日から26日にかけて球団史上ウェス・フェレル以来74年ぶりとなる3試合連続7自責点を記録し[11]、7月26日のレッドソックス戦では地元ファンから容赦ないブーイングを浴び[12]、翌27日にAAA級のバッファローへ降格[13]。復帰戦となった9月2日以降、リリーフとして4試合に登板してレギュラーシーズンを終えた。チームはプレーオフ進出を果たしたが、リーはロースターから外れた[8]。シーズン終了後にはトレードを噂されるようになったが、球団はリーが本調子でないことを理解しており、見返りが期待できないため放出する意向はなく残留[12]

2008年、先発投手の5番手を争う立場となった[12]スプリングトレーニングでは速球の制球力と故障をしないことを重点を置き、レギュラーシーズンを迎えた[8]。開幕から好調で5試合に先発登板した時点での被出塁率.163は99年ぶりの低い数字で、4月は防御率0.96、5勝0敗で月間最優秀投手に選出された[14]。5月7日にかけて6回の登板全てで勝利投手となり、6月9日にリーグで最初に10勝に到達した[8]。7月15日のオールスターゲームではアリーグの先発投手を務め、2回を投げチッパー・ジョーンズの1安打、無失点に抑えた。シーズン後半も勝ち星を重ね、8月には5勝0敗を記録し、2回目の月間最優秀投手に選出された。9月1日には両リーグ1番にシーズン20勝に到達し、球団史上1974年のゲイロード・ペリーの大台に到達[15]。最終的に22勝3敗、防御率2.54(最多勝最優秀防御率の2冠)、223.1回(リーグ2位)などを記録し、ロイ・ハラデイ、歴代最多62セーブフランシスコ・ロドリゲスらを抑えてサイ・ヤング賞を受賞した。カムバック賞も受賞した。

2009年は自身初の開幕投手を務めた。

フィリーズ時代

フィリーズはワールドシリーズ連覇に向け、先発投手を補強するため、ロイ・ハラデイの獲得を試みたが、交換相手で折り合いがつかず交渉は不成立に終わった[16]。その後、リー獲得に向け、ドジャースを上回るトレード要員を提示し[17]、7月29日にベン・フランシスコと共にカルロス・カラスコルー・マーソンジェイソン・ドナルドジェイソン・ナップ英語版との交換トレードでフィラデルフィア・フィリーズへ移籍した[18]。移籍後は球団史上1980年マーティ・バイストロム英語版以来となる最初の先発登板から5戦・5勝を記録[19]。自身初のポストシーズンではニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは第1戦と第5戦に登板し、いずれも勝利投手となったが、チームは敗れて連覇とはならなかった。

マリナーズ時代

2009年12月16日にロイ・ハラデイをはじめとする4チーム、9人の絡むトレードでシアトル・マリナーズに移籍し、契約最終年を迎えることとなった。マリナーズは3人のマイナーリーグ選手を交換要員として放出した。

2010年は開幕を腹部の故障で出遅れたものの、前半戦を8勝3敗、5完投、防御率は2.34と好調だった。

レンジャーズ時代

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2010年ワールドシリーズで登板したリー(レンジャーズ時代)

2010年7月9日にマーク・ロウと共に交換トレードで同地区首位のテキサス・レンジャーズへ移籍。8月6日のオークランド・アスレチックス戦でメジャー通算100勝目を達成した。また背中の故障に見舞われ失速したが、WHIPは両リーグ1位の1.00を記録。チームのプレーオフ進出に貢献した。タンパベイ・レイズとの地区シリーズでは2度先発登板し、それぞれ7回無四球10奪三振1失点、9回11奪三振1失点と好投した。ニューヨーク・ヤンキースとのリーグ優勝決定シリーズでは第3戦に先発登板し、5回二死まで無安打など、8回13奪三振無失点で勝利投手になった。しかしワールドシリーズでは、初戦は7失点で5回持たずに降板。最終戦となった第5戦でも6回まで無失点ながら7回に3点の先制点を許し、敗戦投手となった。シーズンでは12勝9敗、防御率3.18(リーグ6位)、212.1回(同10位)などを記録し、サイ・ヤング賞の投票では7位だった[20]

フィリーズ復帰

2010年シーズン終了後、FA戦線の目玉として去就が注目されていた。友人のCC・サバシアが在籍するニューヨーク・ヤンキースが大型契約で獲得するか、レンジャーズに残留するかと思われていたが、2010年12月15日、フィラデルフィア・フィリーズが5年総額1億2000万ドルでの獲得を発表した。フィリーズの契約はヤンキースやレンジャースと比べても合計契約金や契約年数も短かったが、本人が契約した理由として「お金より気分よく幸せになれて、ワールドシリーズ優勝の可能性が一番高いチームを選んだ」と語った[21]。総額ではこのオフで3番目に高額だった(カール・クロフォードの1億4200万ドル(ボストン・レッドソックス)、ジェイソン・ワースの1億2600万ドル(ワシントン・ナショナルズに次ぐ)。

2011年は17勝(リーグ4位)8敗、防御率2.40(リーグ3位)、232.2回(同4位)などを記録し、サイ・ヤング賞の投票ではクレイトン・カーショウロイ・ハラデイに次ぐ3位だった[22]。シーズン6完封は1989年ティム・ベルチャーが記録(8回)して以来22年ぶりの快挙であり、以降MLBで誰も記録したことがない。セントルイス・カージナルスとのディビジョンシリーズでは第2戦で先発したが6回5失点で敗戦投手となり、自身の登板はその1試合のみでシリーズ敗退となった。自身最後のポストシーズンでの登板となった。

2012年4月18日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では10回無失点(102球)の好投の末、その後チームが敗れる不運があった。先発投手が延長戦でも続投したのは、MLBでは2007年アーロン・ハラングが記録して以来約5年ぶりのことであった(次に記録したのは2017年リッチ・ヒル)。5月15日のヒューストン・アストロズ戦、7月18日のロサンゼルス・ドジャース戦ではともに8回1失点で勝利投手になれなかった。このシーズンは防御率3.16(リーグ9位)、211回(同7位)と安定していたが、勝ち星に恵まれず6勝9敗に終わった。

2013年、14勝(リーグ10位)8敗、防御率2.87(リーグ6位)、222.2回(同3位)などを記録し、サイ・ヤング賞の投票では6位だった[23]

2014年ロイ・ハラデイの引退、コール・ハメルズの故障により、自身5年ぶり2度目の開幕投手を務めた。左肘の故障により13試合の登板に終わった。

2015年スプリングトレーニングで前年8月に痛めた左肘の炎症を再発し、レギュラーシーズンを全休し、マイナーリーグで登板することもなかった。オフに翌年の契約オプションを破棄され自由契約となる[24]

現役引退

2016年2月に代理人より現役続行断念が発表された[25]

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選手としての特徴

  • ダイナミックなフォームから投げ降ろされる速球(フォーシーム)は、スピードが常時90-93mph(約145-150km/h)[26]で、典型的なフライボールピッチャーだった。ストレート系の失投が本塁打になりやすいのが欠点であったのが[10]、インサイドを強気で攻める投球スタイルに変えてから、2008年はゴロで打たせるケースが増え、フライによるアウトをゴロのアウトが上回り[8]、MLBを代表する左腕投手として評価を上げた。フォーシームツーシームカッターといった速球とチェンジアップナックルカーブを投げる。
  • 通算与四球率が1.9と非常にコントロールがよく、通算奪三振率が7.8とそれほど多くないこともあり、少ない投球数でテンポよく抑える。2010年は212回を投げて185奪三振に対し、与四球は僅かに18であった。1与四球あたりの奪三振数を示すK/BBは10.28という驚異的な数値を示した。
  • 打撃では通算打率.175(291打数51安打)、2本塁打、19打点、24犠打などを記録。
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人物

詳細情報

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タイトル 

表彰

記録

  • その他
    • シーズン奪三振/与四球:10.2778(2010年)※アメリカンリーグ記録、左投手MLB記録[29]
    • 4先発登板連続与四球無し(2010年6月)※シアトル・マリナーズ球団記録
    • 38.1イニング連続与四球無し(2010年6月)※シアトル・マリナーズ球団記録
    • 月間4完投(2010年6月)※2003年9月のロイ・ハラデイ以来
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脚注

関連項目

外部リンク

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