トップQs
タイムライン
チャット
視点

井上祐二

ウィキペディアから

Remove ads

井上 祐二(いのうえ ゆうじ、1963年3月2日 - )は、宮崎県日南市出身の元プロ野球選手投手)、野球指導者。

概要 高知ファイティングドッグス 投手コーチ #87, 基本情報 ...
Remove ads

経歴

現役時代

都城高校では1979年、2年生の時にエースとして、1年上の与那城隆(のち巨人)とバッテリーを組み、第61回全国選手権大会に出場。2回戦(初戦)で足利学園から完投勝利を収める[1]が、3回戦では高知高の中平克弘(のち大倉工業)に抑えられ、敗退[2]。翌1980年夏は、宮崎大会準々決勝で日向学院に延長16回の接戦の末に敗退、甲子園には届かなかった。

1980年のドラフト会議南海ホークスから武藤一邦の外れ2位指名を受け、入団。

1981年10月2日の西武ライオンズ戦では、ドラフト制導入後の高卒ルーキーでは4人目となる初登板・初先発での勝利を挙げるなど、入団当初は先発で活躍した。

1982年には8月6日の阪急ブレーブス戦で警告が出た後の3回裏にボビー・マルカーノの頭部に死球を与え、同年パ・リーグに導入された危険球制度の適用による退場の第1号となっている[3]

1983年には6勝を挙げ、初めて規定投球回(18位、防御率5.21)に達する。

1984年に開幕してすぐに腎臓病が発症し、3ヶ月半入院した。翌85年まで体調が戻らなかった。

1986年途中からチーム事情により救援投手に回り、昭和60年代から平成初期によるホークスを支えた。

1989年にはリーグ最多登板を記録し、21セーブを挙げ、最優秀救援投手を受賞。年俸も1500万円増の4600万円(推定)とチームの投手で最高金額になっている[4]

1994年6月27日に金銭トレードで、広島東洋カープへ移籍した。広島では中継ぎとして復活を遂げる。

1996年10月に近藤芳久と共に無償トレードで、千葉ロッテマリーンズへ移籍した。

1997年シーズンをもって現役を引退した。

現役引退後

引退後もロッテに残り、1998年に二軍投手コーチ補佐、1999年2000年は一軍投手コーチ、2001年は二軍投手コーチ、2002年から2009年までは再び一軍投手コーチ、2010年から2012年までは同ブルペンコーチを務めている。

2012年10月15日、球団からコーチ契約の更新をしない旨を通知された[5]

2015年より、社会人野球のJR東日本東北でコーチを務める。

2018年からはJFE東日本でコーチを務め、2022年限りでJFE東日本を退団した。

2023年は、社会人野球クラブチームのジェイファムでGM兼投手コーチを務めた[6]

2024年12月6日、四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグスで投手コーチに就任することが発表された[7]

Remove ads

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

タイトル

表彰

記録

節目の記録
  • 1000投球回:1993年5月29日、対オリックス・ブルーウェーブ8回戦(福岡ドーム)、3回表2死目に飯塚富司を右飛で達成 ※史上249人目

背番号

  • 52(1981年 - 1982年)
  • 12(1983年 - 1994年途中、1997年)
  • 27(1994年途中 - 1996年)
  • 79(1998年 - 2012年)
  • 87(2025年 - )
Remove ads

脚注

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads