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井上祐二
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井上 祐二(いのうえ ゆうじ、1963年3月2日 - )は、宮崎県日南市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。
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経歴
現役時代
都城高校では1979年、2年生の時にエースとして、1年上の与那城隆(のち巨人)とバッテリーを組み、第61回全国選手権大会に出場。2回戦(初戦)で足利学園から完投勝利を収める[1]が、3回戦では高知高の中平克弘(のち大倉工業)に抑えられ、敗退[2]。翌1980年夏は、宮崎大会準々決勝で日向学院に延長16回の接戦の末に敗退、甲子園には届かなかった。
1980年のドラフト会議で南海ホークスから武藤一邦の外れ2位指名を受け、入団。
1981年10月2日の西武ライオンズ戦では、ドラフト制導入後の高卒ルーキーでは4人目となる初登板・初先発での勝利を挙げるなど、入団当初は先発で活躍した。
1982年には8月6日の阪急ブレーブス戦で警告が出た後の3回裏にボビー・マルカーノの頭部に死球を与え、同年パ・リーグに導入された危険球制度の適用による退場の第1号となっている[3]。
1983年には6勝を挙げ、初めて規定投球回(18位、防御率5.21)に達する。
1984年に開幕してすぐに腎臓病が発症し、3ヶ月半入院した。翌85年まで体調が戻らなかった。
1986年途中からチーム事情により救援投手に回り、昭和60年代から平成初期によるホークスを支えた。
1989年にはリーグ最多登板を記録し、21セーブを挙げ、最優秀救援投手を受賞。年俸も1500万円増の4600万円(推定)とチームの投手で最高金額になっている[4]。
1994年6月27日に金銭トレードで、広島東洋カープへ移籍した。広島では中継ぎとして復活を遂げる。
1996年10月に近藤芳久と共に無償トレードで、千葉ロッテマリーンズへ移籍した。
1997年シーズンをもって現役を引退した。
現役引退後
引退後もロッテに残り、1998年に二軍投手コーチ補佐、1999年と2000年は一軍投手コーチ、2001年は二軍投手コーチ、2002年から2009年までは再び一軍投手コーチ、2010年から2012年までは同ブルペンコーチを務めている。
2012年10月15日、球団からコーチ契約の更新をしない旨を通知された[5]。
2015年より、社会人野球のJR東日本東北でコーチを務める。
2018年からはJFE東日本でコーチを務め、2022年限りでJFE東日本を退団した。
2023年は、社会人野球クラブチームのジェイファムでGM兼投手コーチを務めた[6]。
2024年12月6日、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスで投手コーチに就任することが発表された[7]。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更
タイトル
- 最優秀救援投手:1回(1989年)
表彰
- ファイアマン賞:1回(1989年)
記録
- 初登板・初先発・初勝利:1981年10月2日、対西武ライオンズ後期13回戦(西武ライオンズ球場)、6回1失点
- 初奪三振:同上、1回裏に岡村隆則から
- 初完投:1982年5月13日、対阪急ブレーブス前期7回戦(大阪スタヂアム)、9回6失点で敗戦投手
- 初完投勝利・初完封勝利:1982年6月9日、対阪急ブレーブス前期9回戦(西京極野球場)
- 初セーブ:1983年7月18日、対近鉄バファローズ18回戦(大分球場)、8回裏1死に4番手として救援登板・完了、1回2/3無失点
- 節目の記録
背番号
- 52(1981年 - 1982年)
- 12(1983年 - 1994年途中、1997年)
- 27(1994年途中 - 1996年)
- 79(1998年 - 2012年)
- 87(2025年 - )
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脚注
関連項目
外部リンク
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