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伊藤武郎

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伊藤武郎
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伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 2001年11月29日[1])は、日本映画プロデューサー労働運動家日本映画演劇労働組合の初代委員長として、東宝争議を指揮した。本名伊藤 武男(いとう たけお)[1]

概要 いとう たけろう 伊藤 武郎, 本名 ...

人物・来歴

1910年(明治43年)7月17日福井県に「伊藤武男」として生まれる[1]

東京に移り、早稲田大学に入学[1]、同学を卒業後の1937年(昭和12年)、東宝映画(現在の東宝)に入社する[1]。東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で、1942年(昭和17年)、渡辺邦男監督の『武蔵坊弁慶』で伊藤基彦とともに初めて「製作」に名を連ね、映画プロデューサーとなる。

第二次世界大戦終結の翌年、1946年(昭和21年)2月に東宝撮影所で東宝争議が起きる[2]。同年4月28日、映画・演劇の産業別労働組合である日本映画演劇労働組合(日映演)を1万人を超える組織人員で結成、初代委員長に就任する[3]。1947年(昭和22年)には、山本薩夫亀井文夫共同監督、宮島義勇撮影による映画『戦争と平和』をプロデュースし[1]、同年7月22日に東宝が配給して公開される[4]。1948年(昭和23年)4月8日、伊藤は、東宝から他の270名とともに解雇を通告され、第3次争議が勃発する[2]。伊藤は会社側と折衝し、自らを含む争議指導者20人の解雇と引き換えに、一方的な大量解雇を撤回、要求を貫徹した[1][2][5]

東宝退社後、1950年(昭和25年)、新星映画を設立し、映画をプロデュースしつづけた[1][5]。1953年(昭和28年)には新世紀映画を設立、1954年(昭和29年)には独立系配給会社北星映画が破綻し、独立映画となったので、同社の代表に就任した[5]。同年、新星映画、キヌタプロダクションのスタッフを結集して中央映画を設立、調布市中央映画撮影所を建設・オープンした[5]。同撮影所は1957年(昭和32年)ころまでは稼働したが、調布映画撮影所と社名を変更し、レンタルスタジオになったあと、1960年(昭和35年)には取り壊された[5]

2001年(平成13年)11月29日肺炎のため死去した[1][6]。満91歳没。『戦争と平和』、『人間の壁』、『どっこい生きてる』、『ひめゆりの塔』がおもな代表作である[1]。1976年、日本映画テレビプロデューサー協会よりエランドール賞が贈与。

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おもなフィルモグラフィ

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戦争と平和』、1947年。
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どっこい生きてる』、1951年。
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参考書籍

  • 『軍艦だけ来なかった「東宝争議」 - 伊藤武郎インタヴュー』、『昭和史探訪 5』所収、編著三國一朗番町書房、1975年 [7]
  • 『映画少年』、伊藤昌洋作品社、2001年 ISBN 4878933933

外部リンク

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