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江波杏子

日本の女優(1942−2018) ウィキペディアから

江波杏子
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江波 杏子(えなみ きょうこ、1942年昭和17年〉10月15日[1][2] - 2018年平成30年〉10月27日[3][4])は、日本女優東京都渋谷区千駄ヶ谷出身[5]。最終所属はアルファエージェンシー宝仙学園高等学校出身[6][2]。本名︰野平香純[2]スリーサイズB89cm、W61cm、H90cm(1968年10月、江波本人の申告)[7]

概要 えなみ きょうこ 江波 杏子, 本名 ...
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来歴・人物

要約
視点

高祖父は、最後に沖田総司を匿った植木職人の柴田平五郎[8][9]。母・江波和子は戦前に東宝で活躍した映画女優。父は千駄ヶ谷で割烹大関を営む。子供の頃はシャイで自意識が強く、本ばかり読んでいた子だったという[10]

小学生の頃にキャロル・リード監督の『落ちた偶像』を観たのがきっかけで、本人曰く「現実逃避的に」女優になろうと思ったことや[10]、また幼い頃に亡くなった母の仕事を継ぎたい一心で中学生の頃から女優を志し、1959年に十三期ニューフェイスとして大映に入社[2]。オーディション時、まだ16歳の宝仙学園高等学校在学中の高校生だった彼女は年齢を1歳上に偽り、母親が女優だったことは言わなかった[2]

1960年、映画『明日から大人だ』でデビュー。芸名は、母親の芸名と室生犀星の新聞連載小説『杏っ子』に由来している[10][5]

デビュー後しばらくの間は、悪女や情婦などの役柄を中心に助演が続いたが、1966年、当初『女の賭場』[11]での主演を予定されていた若尾文子が自宅風呂場での転倒による怪我を理由に降板し、江波が代役として主演に抜擢された。そこで演じた胴師ぶりがうまくハマり、同作品はヒット。以後、昇り竜のお銀を主人公とした「女賭博師シリーズ」として定着し、1971年の『新女賭博師 壷ぐれ肌』まで全17本が制作され、東海道新幹線の車内で本物のヤクザから「姐さん、きょう賭場が開いてますよ」などと声を掛けられるほどの当たり役となった[10]

この「女賭博師シリーズ」については、後年「好きではない」と公言することが多かったが、雑誌『シネ・フロント』のインタビューでは次のように語っている。「女賭博師というのも不本意な役で、自分がやりたいと思っていた役とはかけ離れていたので、こんな役をやらされるのであれば女優を辞めようと。でもよくよく考えて、主役というのを一本くらいやってみてもいいのではないかと思ってやった所が、たまたま大当たりしまして。当たると気持ちがいいから次々やっていたのですが、今度はやり過ぎたものですから仁侠アレルギーになって、今では見るのもゾッとするほど嫌ですね。あれがあったから今でもこうして仕事をやらせていただいている訳ですから、そうそう我儘も言えないんだけど、もう嫌ですね、アレルギーですね」。そう語りつつも、このシリーズの“ポップな意味での面白さ”は認めている[12]

大映倒産後の1973年斎藤耕一監督の『津軽じょんがら節』に主演してキネマ旬報主演女優賞を獲得。この作品について当時の江波は、自身の持つ魔女風の顔と、優しく粘っこい日本的な女の顔、相反する二つが初めて自然に溶け合い、噛み合った作品だと自己分析し、斎藤監督の「したたかな女優分析眼の成果である」と『キネマ旬報』(1974年2月下旬号)に文章を寄せている[13]

自身の出世作となった『津軽じょんがら節』であるが、斎藤耕一作品としては『約束』や、江波自身も出演した『再会』の方が自分の好みであるとのこと[12]

1978年11月28日、名古屋御園座での『快挙! 赤穂浪士』舞台稽古中、セットから降りる際に足を踏み外し、左脚を骨折[14] 。約1年間の療養生活を送る。このことが大映時代からの自分自身を見つめ直す一つのきっかけとなり、デビュー当初から厳しく躾られてきた“女優らしさ”から解き放たれたいと思うようになる。ハイヒールをやめ、毛皮や宝石も手放し、運動靴を日常的に履くようになってジョギングを始める[15]

ある時期から、『津軽じょんがら節』の脚本を書いた中島丈博執筆のテレビドラマに数多く起用されるようになり、『海峡』や『かぐわしき日々の歌』など、NHKのドラマ人間模様銀河テレビ小説での江波の演技が井上ひさしの目に留まり、こまつ座の舞台『雨』の出演に繋がる。以後、芝居の面白さに目覚めて舞台の出演作品が飛躍的に増える。

雑誌『ラ・メール』の対談で、詩人の吉原幸子から「舞台と映画とテレビの仕事をやっていて、いちばんあなたに合っているのは何で、情熱を燃やすのは何?」と問われると、「私が観る側に立って好きなのはやはり映画ですね。心から好き」と答えている。と同時に「今の日本の映画界にはまったくいい作品がない。かつては日本の映画にも、ほんとに素敵なものがありましたよ。人を酔わせるというか、それを観て人生観が変わったなんてこともあったわけですから。そうなると今は書物、それと芝居。それしかないんじゃないですか?」とも話している[16]

先に引用した『シネ・フロント』のインタビューでは、好きな映画監督として、川島雄三溝口健二黒澤明山中貞雄の名を挙げている[12]

年齢を重ねてからも、この年代の女優としては特筆できるほど、舞台・テレビ・映画とコンスタントに活動を続けていたが、2018年10月26日に体調不良を訴え、東京都内の病院に入院。翌27日21時06分、肺気腫の急性増悪のため、76歳で死去[3][4]。急逝5日前の10月22日までNHK FMのラジオドラマ収録に元気に臨んで録り終えていた矢先の訃報であった[17]。生涯独身。

単発の映像ドラマ作品としての遺作は2018年11月16日フジテレビ放送の、同作2年ぶりの新作である山村美紗サスペンス『赤い霊柩車 37』、連続ドラマとしての遺作は2019年1月11日から3月1日に放送されたNHK BSプレミアム小吉の女房』(全8回)となった。

映画遺作は2018年4月6日公開の『娼年[18]、ラジオドラマ遺作は2018年12月8日NHK-FM放送の『FMシアター 罵詈雑言忠臣蔵』となった。

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エピソード

  • 東宝からデビューした田村奈巳は近所の幼馴染。高校の同級生でもあり、仲良しグループのメンバーでもあった[19]
  • 会社の意向で出演した『女賭博師』シリーズで看板スターに祀り上げられてしまったものの、本当はフランス映画のような現代的な作品に出ることを希望していた。気持ちの切り替えのために、休日は金髪&ミニスカートで闊歩していたという[10]。大映倒産後の代表作となった『津軽じょんがら節』は日本土俗+モダニズムともいうべき路線だったが、「日本のクロード・ルルーシュ」の異名を取った斎藤耕一監督とのコンビはこうした彼女の近代志向からすれば必然でもあった。斎藤は数年後に『幸福号出帆』でも主役ではないものの彼女を起用し、絢爛たる欧州趣味でその持ち味を引き出した。井上梅次監督のテレビ映画『黒水仙の美女』(1978)も、大きなセットとスタントまで用意して破天荒なまでに派手なラストシーンが繰り広げられ、彼女ならではの非日常感を鮮明に刻みつけている。
  • 雑誌の対談をきっかけにザ・テンプターズの萩原健一と交際したが、これは江波の方から恋愛関係に発展させたものだった。
  • グラマーな体型だったことから、写真家達の人気の的となり1960年代から1970年代以後もヌードも披露し、グラビアでも活躍した。読書が趣味で、新聞を読むのが一番の楽しみ。特に、寝る前には必ず文字を見なければ寝られないというほどだった。
  • かなりの酒豪でブランデーを一晩で一本空けたことがある[9]
  • 毎日欠かさず発声練習、ストレッチを30分やっていた。体が柔らかだった。
  • 刑事ドラマGメン'75』のヨーロッパロケ中にスリ被害にあった[9]
  • 大映時代、縦社会にうんざりして時には先輩に反発していた[10]
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出演作品

要約
視点

映画

テレビドラマ

ラジオドラマ

舞台

吹き替え

  • 権力と陰謀 大統領の密室(1978年、NHK)- サリー・ウォレン

〈原題/Washington: Behind Closed Doors(英語)(1977年、米ABC)- ステファニー・パワーズの吹き替え〉

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ディスコグラフィ

シングル

さらに見る 発売日, 規格 ...

アルバム

オムニバス・アルバム

  • 『女賭博師』(1970年、DSS-4)- テーマ曲、このレコード用に録られたセリフ、主題歌 (『銀子の唄』『いのち花ブルース』) を収録。
  • 『任侠女一代』(DE1012)- 江波杏子の他、渚まゆみ八泉鮎子らによる歌唱曲を収録。
  • 『Gメン'75 道 オリジナル主題歌・挿入歌集』- 『漂泊』収録。
  • 『Gメン'75 遥かなる旅路 主題歌挿入歌集』- 『漂泊』収録。
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脚注

関連項目

外部リンク

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