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住友一哉
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住友 一哉(すみとも かずや、1958年2月14日 - )は、徳島県鳴門市[1]出身の元プロ野球選手(投手)。
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来歴・人物
鳴門高では3年次の1975年、夏の甲子園予選南四国大会で決勝に進出するが、玉川寿外野手(慶大 - 日本石油)のいた土佐高に敗退。同年のドラフトで阪急ブレーブスから1位指名されるも入団を拒否し、高校卒業後の1976年に法政大学へ進学[1]。江川卓・袴田英利らの2年後輩に当たり、東京六大学リーグでは法大4連覇を目の当たりにするが、3年次の1978年以降はリーグ優勝に届かなかった。4年次の1979年秋季では、チームは明大に次ぐ2位ながら、好投が評価されベストナインに選出される。リーグ通算24試合登板、10勝4敗、防御率1.65、69奪三振。大学同期に福原峰夫、谷真一(近鉄でも同僚)がいる。大学卒業後は1980年に創部2年目のプリンスホテルへ入社し、稲葉誠治監督の指導を受ける。同年の都市対抗に出場し、1回戦で神戸製鋼を完封。2回戦でも新日鐵釜石を相手に先発し7回を好投するが、延長13回にリリーフの小林秀一(熊谷組から補強)が崩れサヨナラ負けを喫する。翌年の大会では電電東京の補強選手として優勝を経験したが登板はなかった[2]。
1981年のドラフト6位で近鉄バファローズに入団[1]。同期に金村義明がいる。
1983年には中継ぎ・抑えとして一軍に定着し、規定投球回には届かなかったが8勝3セーブを記録。投球動作中には右手でテイクバックを取っている最中に左手を大きく前方に突き出して、ピラリと反転させる独特のフォームは「ぎくしゃく投法」「ヒラヒラ投法」などと呼ばれ、度々やくみつるの漫画でも取り上げられた。スライダー・カーブ・シュート・シンカーなど多彩な球種で打者を幻惑し、その後も1年おきに30試合以上に登板。
1988年オフに南秀憲と共に佐藤秀明・福家雅明との交換トレードで阪神タイガースに移籍。
1989年には自己最多タイの44試合に登板し活躍。6月25日の巨人戦(甲子園)で岡田彰布がビル・ガリクソンから逆転満塁本塁打を放った直後にもリリーフするが、ラジオの実況アナウンサーが「もし同点にされたら今晩住友は日本中から悪者にされますね」と語っていた。試合は5-4で阪神が勝利し、住友が3セーブ目を挙げた。
引退後は古巣・近鉄で二軍投手コーチ(1992年 - 1996年)→スコアラー(1997年 - 2004年)、合併後はオリックスでスコアラー(2005年)→一軍投手コーチ(2006年)を務めた。
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詳細情報
年度別投手成績
記録
背番号
- 22 (1982年 - 1988年)
- 24 (1989年 - 1991年)
- 87 (1992年 - 1996年)
- 75 (2006年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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