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佐瀬勇次
日本の将棋棋士 ウィキペディアから
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佐瀬 勇次(させ ゆうじ、1919年3月17日 - 1994年3月25日)は、将棋棋士。千葉県山武郡松尾町(後の山武市)出身。石井秀吉七段門下。1990年引退。棋士番号41。
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経歴
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戦前のアマ名人戦の県代表となる。1938年入門。軍隊生活を経験し、復帰後の1944年に四段となる。1946年より順位戦に参加。
現役生活44年間対局不休、無遅刻の記録を続けながら1990年3月に引退。生涯成績は458勝599敗。
1994年3月、尿毒症のため死去。享年75。
人物
- 米長邦雄ら、多数の弟子を持ったことで知られ、名伯楽との評価が高い。
- 盤上では目立った実績はなく、内弟子の米長邦雄が、家の雑用などをしたときのご褒美の対局を「お断りします。師匠と指したら、師匠の癖がつき、師匠どまりの棋士になる」と拒否して、げんこつを食らったという逸話もある[2]。また「私が今日あるのは佐瀬先生に一局も教わらなかったから」とも言っていた。しかし師匠としては人望手腕ともに卓越しており、米長は「師匠どまりになる」と言ってげんこつを食らった逸話について「しばらくして『考えたら、お前の言うとおりだ』言われた」と明かしており「破門だ、出ていけ」と弟子に言わなかったのは名伯楽だとして深く敬っていた。
- 米長を内弟子として預かっていた昭和30年代初頭は将棋界全体が苦しい時代で、佐瀬もまた例外ではなく、北区・十条にある一軒家の二階を借りて住んでいたという[3]。そのような経済状態にありながら自らを内弟子として迎え入れてくれたことについて、後年の米長は「このご恩は何物にも替え難い。師匠にはとてもお返しできるものではない」と語っている[3]。
- 米長邦雄・丸山忠久と二人の名人の師匠となったが、これは近代将棋史上木見金治郎(大山康晴・升田幸三の師匠)と佐瀬のみの記録である。
- 妻との間に3女をもうけた。娘の1人は弟子の沼春雄と結婚し、沼は佐瀬家の婿養子となった。故に沼の戸籍上の本名は「佐瀬春雄」であり、「沼春雄」は将棋棋士としての名前(いわば登録名)であるといえる。
- 1987年、佐瀬の孫弟子にあたる櫛田陽一(田丸昇門下)がプロデビューしている。このため、佐瀬は自身が現役中に孫弟子がプロ棋士になるという珍しい快挙を達成している。
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弟子
棋士となった弟子
女流棋士となった弟子
昇段履歴
→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
主な成績
将棋大賞
- 第18回(1990年度) 東京将棋記者会賞
在籍クラス
→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
年度別成績
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その他表彰
- 1993年、勲五等双光旭日章
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主な著書
- 初歩将棋入門 この本だけで完全にマスターできる!(1979年、日本文芸社、ISBN 4-537-00169-0)
- 一人で楽しめる詰将棋100題(1992年9月、日本文芸社、ISBN 4-537-01577-2)
テレビ番組
脚注
関連項目
外部リンク
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