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勝浦修
日本の将棋棋士 ウィキペディアから
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勝浦 修(かつうら おさむ、1946年5月8日 - )は、将棋棋士、九段。棋士番号は96。渡辺東一名誉九段門下。北海道紋別市出身。2011年に引退。竜王戦1組在籍は通算4期、順位戦A級在籍は通算7期。
棋歴
要約
視点
父が将棋好きで、旅館業を営む傍ら出入りの業者を相手に朝から晩まで将棋を指している環境で育ったという。
福井資明九段に師事[1]。福井との縁は小学3年生の頃に指導を受けてからの縁で、中学入学と同時に内弟子生活に入ったという。
1961年、15歳のときに全日本アマチュア名人戦で北海道代表[2][注 1]。1962年には十段戦でアマチュア枠において参加、大内延介に敗れた。同年、中学卒業と同時に上京して奨励会を受験。当初は1級での受験であるが成績がふるわず不合格になるはずだったものの、温情で2級での入会が許されたという。渡辺東一門下となった。下宿先は京須行男(森内俊之の母方の祖父)の実家であったという。
1年半ほどの期間で三段となり、旧制度の三段リーグ(奨励会A組)ではしばらく足踏みしたが、1966年度前期・後期の2期連続で関東優勝し、1967年4月に四段昇段してプロ入りした。昇段を決めた一局の相手は、森雞二[2]。
第13期(1968年度後期)棋聖戦で本戦初出場。1回戦で山田道美を破る。
順位戦では、プロ2年目の第23期(1968年度)C級2組で9勝3敗・2位となり、C級1組へ昇級(五段昇段)。また、C級1組では1年目に9勝3敗で次点(3位)に終わるも、2年目に10勝3敗・1位となり、B級2組へ昇級(六段昇段)。さらに、B級2組2年目で8勝2敗・2位となり、B級1組へ昇級(七段昇段)。そして、B級1組3年目の第30期(1975年度)で10勝3敗・1位の成績を収め、1976年4月1日付けでA級八段となった。ちょうどこのとき名人戦の主催紙移行問題のため順位戦の開始が延期され、勝浦は初めてのA級順位戦を戦い始めるまで待たされた。A級に5期連続在籍の後にB級1組に降級したが、その後、A級に復帰したこともある。A級在籍は通算7期。
第22期(1972年度)王将戦で初めて王将リーグ入り(A級より定員が少ない難関)。4勝3敗で残留したが、次の第23期で陥落。以降、第27期・第29期・第30期・第31期の王将戦では、リーグ復帰と即陥落を繰り返している。
第16期(1975年度)王位戦で初のリーグ入り。第17期(1976年度)王位戦でタイトル初挑戦。七番勝負では中原誠王位に2-4で敗れる。以降も何度も王位リーグ入りしている。
1979年度は、テレビで放映される2つの早指し棋戦で、いずれもベスト4に進出(第29回NHK杯戦、第13回早指し将棋選手権)。
第3回(1980年度)オールスター勝ち抜き戦で7連勝。5連勝以上は優勝扱いのため、これが棋戦初優勝。
第29回(1981年度)王座戦(タイトル戦昇格以前)で挑戦者となり、決勝三番勝負では大山康晴王将に1-2で敗れる。同年度、第14回日本将棋連盟杯争奪戦で大山康晴(準々決勝)、加藤一二三(準決勝)、森安秀光(決勝)を破って優勝。第8回将棋大賞で技能賞を受賞。
第46期(1985年度前期)棋聖戦にて本戦で中原誠・森雞二・谷川浩司らを破り、米長邦雄棋聖への挑戦権を獲得。五番勝負は1-3で敗退。「カミソリ(自分のこと)が泥沼(米長のこと)に浸かって切れ味が鈍ってしまった」との言葉を残している[2]。勝浦の1勝は、ロサンゼルスで行われた第2局で挙げたもので、内容は勝浦先手の相掛かりからの乱戦であった。
同年度、オールスター勝ち抜き戦で自身2度目の5連勝以上(6連勝)を達成。
1985年11月1日、八段昇段後250勝を達成し九段に昇段。年間25勝を超えるハイペースであった。
竜王戦では、第2期(1989年度)に2組優勝。本戦は初戦で敗退するが、1組初昇級。第4期(1991年度)竜王戦1組では3位となり本戦でベスト4進出。1組には通算4期在籍。
1993年、通算600勝を達成(将棋栄誉賞)。
1997年、フリークラス宣言により順位戦B級2組からフリークラスに転出。65歳を迎える2011年度(または2012年の最終対局日)まで指す権利があったが、本人の意思で1年早く引退することが発表された[3]。残す対局は第61期王将戦と第24期竜王戦6組昇級者決定戦であったが、いずれも敗れて2011年8月19日(竜王戦敗退、対伊藤真吾戦)をもって引退となった[4]。
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人物
- 詰将棋作家としても活動。本人の弁によれば塚田正夫名誉十段の影響を受けており、実戦的でスッキリした手順を好んでいる[7]。解くのも早い[2]。また、兄弟子であり詰将棋仲間の二上達也九段を敬愛している一方で彼からも高い評価を受けており、後述するカミソリ流という名に掛けて「電動式ではない、詰将棋の作風も表しているゾーリンゲンのカミソリ」と評されている[8]。
- その二上達也が師範を務めていた新宿将棋センターでは、三段時代から手合い係を務めており、プロになってからも六段になるまで手合い係を続けた[9]。ある日、客として通っていた土地のやくざと指導対局を行い、そのやくざから「若先生[注 2]、どうしたらいくらかでも強くなれますか」と問われ、「もう少し考えることです」とアドバイスを送った。そのやくざとは、若き日の安部譲二であり、本人はその指摘が「真にその通りだったので、おかしくて堪らなかった」という[10]。
- 中終盤での切れ味に特徴がある棋風は「カミソリ流」と評される。引退後には後輩ながら谷川浩司の将棋スタイルが理想であったと述べた。
- 日本将棋連盟の理事には1976年に初めて選任されて以来、7期14年にわたり務めた。小学生時代にソロバン一級を取得するなど、事務処理能力の高さを買われてのものであったという。また、人柄の良さも評価されており、米長邦雄は「計算が得意だけれど決して計算は高くないのが彼のいいところ」と評している[11]。
- 田丸昇によると、1994年の林葉直子の休養・失踪騒動において、林葉から休養の申し出を直接受けた理事は勝浦であったという。また、田丸は林葉が連盟に無断で手記を発表した処分をめぐって、林葉の除名・引退勧告を強く主張した理事として勝浦の名前を挙げ、「当初の経緯を思うと、その気持ちはよくわかる。」と記している[12]。
- 趣味はパチンコ[1]の他、麻雀、競輪、競馬を一通りたしなむ。親交のあった阿佐田哲也にはプロ雀士にスカウトしたいと評されたほどの腕前だという。大山に挑戦した王座戦の第1局には、一人福岡での麻雀大会に参加してから会場の石川に向かったという。
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弟子
棋士
(2023年11月16日現在)
女流棋士
(2023年4月1日現在)
- 野月・金沢・広瀬・久津は、勝浦と同じく北海道の出身である。
昇段履歴
主な成績
通算成績
- 1411対局 714勝697敗 勝率0.5060
タイトル戦登場
- タイトル戦登場 合計2回、獲得なし
棋戦優勝
- 日本将棋連盟杯争奪戦 1回(1981年度 = 第14回)
- オールスター勝ち抜き戦5連勝以上 2回(第3回(1980年度)7連勝、第8回(1985年度)6連勝)
- 棋戦優勝 合計3回
将棋大賞
- 将棋大賞
- 第8回(1980年度) 技能賞
- 第39回(2011年度) 東京記者会賞[14]
在籍クラス
→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
その他表彰
- その他受賞
- 1991年 現役勤続25年表彰
- 1993年 通算600勝(将棋栄誉賞)
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日本将棋連盟理事
- 1976年より理事(7期14年)
叙勲
脚注
出典
関連項目
外部リンク
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