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八代亜紀

日本の女性歌手、タレント (1950-2023) ウィキペディアから

八代亜紀
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八代 亜紀(やしろ あき、1950年昭和25年〉8月29日[2] - 2023年令和5年〉12月30日[3])は、日本の演歌歌手女優タレント画家熊本県八代郡金剛村出身[4]

概要 八代(やしろ) 亜紀(あき), 基本情報 ...
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来歴

要約
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生い立ち

幼少の頃から父親の歌う浪曲を子守唄代わりに聴きながら育つ[5]。この影響もあり歌が好きで、地元の歌唱コンクールに出場していた。

八代が小学5年生のとき、たまたま父親が買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴き[5]、そのハスキーボイスに魅せられる。ハスキーボイスの持ち主だった八代は、その声に若干のコンプレックスがあったが、ジュリーの声質に勇気づけられ、クラブ歌手になることを意識するようになる。

15歳で上京してクラブ歌手に

八代市立第六中学校卒業後、九州産業交通にバスガイドとして就職する。しかし人前で話すのが苦手で、業務中に歌声を披露する機会もないため3ヶ月で退職した。その後は地元の「キャバレーニュー白馬」に歌手として雇われる[6]。ところが父の会社の従業員が客としてやってきたために3日で発覚してしまう。「不良は家にいらない」と勘当され、東京にいる従姉妹を頼りに上京した[7]

上京後は歌える喫茶店で学費を稼ぎながら、音楽学院で基礎を学ぶ。数年で銀座のクラブで歌うようになり、学校に行かなくなった。そのころは主にスタンダードジャズやポップスを歌っていた。同じクラブで歌っていた三谷謙(のちの五木ひろし)から芸能プロダクションを紹介される。

歌手デビュー

1971年テイチクより「愛は死んでも」でデビュー。芸名の姓は出身地の八代(やつしろ)市から採り、語呂を考えて「やしろ」という読みにした[8]。名前は本名の明代より呼びやすい「アキ」とし、漢字の亜紀には「アジア(細亜)で何世も活躍できるように」という願いが込められている[9]

その後、よみうりテレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場して10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなったことで、徐々にレコードが売れ始める[10]

1973年に「なみだ恋」が120万枚のヒット[11]。その後も「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんなの夢」「ともしび」「花水仙」「もう一度逢いたい」「おんな港町」「愛の終着駅」など、女心を歌った曲でヒットを連発する。

1979年に新境地を開拓した初の男歌「舟唄」が大ヒットし、1980年に発表した「雨の慕情」で第22回日本レコード大賞TBSテレビラジオ)を受賞する。これら2曲は「港町絶唱」とともに阿久悠浜圭介竜崎孝路のトリオによる「哀憐三部作」とされ、NHK紅白歌合戦NHK総合ラジオ第1#NHK紅白歌合戦出場歴参照)では2年連続大トリを務めた。ほどなくして「演歌の女王」と称されるようになる[8][12]

ベテラン歌手へ

1982年、センチュリーレコードへ移籍。「海猫」「ブルーレイン大阪」「日本海」「陸の船乗り -ロンサム ロード-」「恋瀬川」などを発表する。

1986年には日本コロムビアへ移籍。1987年に個人事務所「ミリオン企画」を設立。1990年に「花(ブーケ)束」を発表。ポップス調バラードの同曲は八代の新たな一面を引き出し、演歌ファン以外からも支持されてロングセラーとなった。

演歌歌手としては珍しく全盛期の楽曲すべてがヒットし、総売上枚数は女性演歌歌手トップである。アルバムについても、オリコンの総合チャートのトップ10に5作品をチャートインさせた。総合アルバムチャートトップ10獲得連続年数は1974年から1976年まで3年で、2007年現在、演歌歌手第3位である[13][注釈 3]

2007年、出資法違反容疑などで摘発された株式会社エル・アンド・ジーによる、顧客獲得のための会員向けコンサートに出演していたことが発覚[14]。被害対策弁護団は違法収益返還の取り組みも行っていたが[15]、照会書において八代は「返還したい」とは答えなかった[16]。なお、同コンサートに出演した演歌歌手の大半は返還以前に照会書への回答すら行っていない[16][17](詳細はエル・アンド・ジー参照)。

晩年〜死去

2012年ごろからジャズ、ブルースなどを本格的に歌うようになる(後述)。コンサートやディナーショーは演歌・ジャズ・ブルースを構成した内容で、ジャンルレスを掲げていた。また、ボランティア活動や地域社会貢献活動などにも長年関わっていた(後述)。

2023年9月12日、膠原病の一種であり指定難病である抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎のため、年内の活動を休止することを発表した[18]

以降は療養を続けてきたが、同年12月30日、東京都内の病院で死去した。73歳没。単独では9月5日長野県佐久市でのコンサートが、入院前日の9月9日に開催された日野皓正のコンサートへのゲスト出演が生涯最後のステージとなった。いずれも杖なしでいつも通りに舞台をこなした。葬儀は八代の遺志により、明けて2024年1月8日に事務所スタッフのみで執り行われ、訃報は翌9日に所属事務所より公表された[19][20]

2024年2月7日、熊本県は「国民に広く敬愛と感動を与えた」として「熊本県民栄誉賞」の授与を発表した(11例目、物故者は川上哲治以来2例目)。また、八代市も「名誉市民」の称号を授与することを発表した(合併後の新・八代市としては初、旧・八代市を含めて6例目)[21]

2024年3月26日、『八代亜紀 お別れの会~ありがとう…これからも~』が東京蒲田の片柳アリーナで行われた。ステージ復帰を熱望していた八代の思いに応える形で、生バンドの演奏に八代の歌声を重ねたコンサート形式で開催した。歌手仲間や関係者、ファンら合わせて3000人が見守った[注釈 4]

2024年、『第66回輝く!日本レコード大賞』において特別功労賞を贈られた[22]

楽曲・絵画等の各種権利については、八代の生前に、ミリオン企画の社長の大野誠が自身の資本で立ち上げた新会社「八代ミュージック&ギャラリー株式会社」に移管されている。また、八代の遺言により、ミリオン企画は2024年で解散となっている[23]

2024年12月19日、菩提寺である安養院に等身大の銅像が建立され、除幕式が行われた[24]。八代の代表曲のひとつ「雨の慕情」を歌う姿を模した像である[25]

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人物

要約
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子供時代

父は浪曲などの歌が得意だった[注釈 5]。また、父が若いころ画家志望だったこともあり、八代は幼い頃から絵画教室に通った。当時は休日に母が作ってくれた弁当を持って父と一緒に写生に出かけ、休憩がてら父のギター弾き語りを聴いていたという[5]

父と母は19歳と20歳で駆け落ち同然で結婚し、共働きをして八代を育ててきた。普通の会社員だった父は八代が小学2年生のころ[26]に運送会社[12]を起業したが、会社経営の難しさから生活が困窮するようになる[注釈 6]

その生活状況に加え、会社経営に苦悩する父の姿を見続けたことから、子供ながらに「早く大人になって働いて、家計を助けるんだ」と決意する[5][12]。12歳で先述の通りクラブ歌手を目指し始めるが、その理由は「一流の歌手はクラブで歌うもの」と勘違いしたことも一因だった[注釈 7]

プロの歌手を目指して上京

将来クラブ歌手になることを念頭に置き、その前段階として中学卒業後に15歳でバスガイドになった。しかし人前で話すことが恥ずかしくて上手く喋れず、観光名所を通り過ぎるなど失敗が多かった[5]。そのようななか、友達の勧めで市内のキャバレー「キャバレー ニュー白馬」(2015年時点で現存)の歌のオーディションに年齢をごまかして参加し、店の専属歌手として採用される[5][10]

両親に内緒でバスガイドを辞めてキャバレーで歌いはじめるが、3日後に父の友人が来店したことで両親に発覚した[10]。「不良になった」と父親に勘当されて上京[5]。そのため同店で歌ったのは3日間だけであったが、本人は「歌手としての自信を持った大事な場所。ここが歌手・八代亜紀の原点」と位置づけている[8][10]

東京の親族の家で下宿しながら音楽学院に通い、学費と生活費を稼ぐため新宿の歌える喫茶店[注釈 8]でバイトを始める[注釈 9]

銀座のクラブと歌手デビュー

18歳のころ銀座のクラブで歌うようになると、ホステスたちから「あきちゃんの歌には哀愁がある」と好評を得た[注釈 10]。後日ホステスたちから「レコードを出した方がいい」と背中を押され、その後レコードデビューへと繋がった[5][注釈 11]

歌手デビューした夜は嬉しさのあまり、デビュー曲「愛は死んでも」のシングルレコードを抱いて眠った[27]。同曲はヒットしなかったが、これまで応援してくれた人の気持ちに答えるためにも何とか売ることを決意し、トランクに同曲のレコードを詰めて、ほぼ毎日地方のキャバレー周りをした[注釈 12]

歌に対する考え方

「歌手としては表現者というより、それぞれの歌が持つ心を伝える代弁者でありたい」との考えを持っている[26]

学生時代、音楽教師から「そんな声出しちゃいけない」などと言われ、ハスキーな声にコンプレックスを感じていた。しかし銀座のクラブで歌うようになってから、ホステスや客たちから歌声を褒められたことで「自分の声はいい声だったんだ」と気づき、好きになったとのこと[10]

デビュー当時から「レコーディングでは、歌っている時の自分の顔を誰にも見せない」ということを決めていた。理由は「私は辛い人や悲しい人、苦しい人の代弁者のつもりで歌ってきました。歌入れの時はそういう人の表情になっているはずで、それを見られるのは恥ずかしいから」であった[27]。また「レコーディングは何回も録らない」という考えをもっている。これはスタジオで曲のイントロを聴き、最初に浮かんだイメージで歌うことを大事にしているため。これまでのレコーディングでは、一曲につき基本的に通しで3回までしか歌っていない[27]

2021年のインタビューで、今後歌ってみたい歌として「歌詞が徹底的なまでに短くて、ギター一本でも成立するようなシンプルな作りで、“どん底の悲しみ”を表現するような歌を歌いたい」と目標を語っていた[27]

ジャズ・ブルース歌手として

2012年、小西康陽プロデュースによるジャズアルバム『夜のアルバム』をユニバーサルミュージックから発売。同作は世界75か国で同時配信され、歌手活動42年目で世界デビューした。マレーシアのiTunes Storeジャズチャートで1位・シンガポール2位・台湾4位・香港7位[28]、オリコンアルバムチャートのデイリーチャートで最高9位、週間チャートで最高20位を記録するヒットとなった。11月にはジャズ歌手としてブルーノート東京のステージに立った[29]

2013年3月にニューヨークのジャズクラブ・バードランドでライブを開催。八代が憧れるヘレン・メリルをゲストに招いて初共演した。そのライブの模様はNHK総合テレビのドキュメンタリー番組『演歌の女王 ジャズを歌う〜八代亜紀・ニューヨークでの挑戦〜』として放送。同番組が反響を呼び、8月に当日のライブを収録したアルバム『夢の夜〜ライヴ・イン・ニューヨーク』が発売された[30]。さらに9月にはジャズ・フェスティバル「第12回 東京JAZZ」に出演するなど、演歌のコンサートと並行してジャズライブも積極的に実施していた。

2015年10月、寺岡呼人プロデュースによる初のブルース・アルバム『哀歌 -aiuta-』を発表。同アルバム発売を記念し、11月には3年ぶりにブルーノート東京で『AKI YASHIRO "aiuta" Special Night』を開催した。12月には東京国際フォーラムで『八代亜紀 "哀歌" クリスマスコンサート』を開催[31]

2017年10月、ジャズアルバム第2弾『夜のつづき』を発売し、前作『夜のアルバム』に続いてiTunesジャズチャートで1位を獲得する。同作品の発売を記念して11月にブルーノート東京、12月にビルボードライブ大阪、2018年1月にブルーノート名古屋でジャズライブを開催した[32]

2022年10月21日・22日の2日間にわたり、フランス・パリ日本文化会館で公演を開催した。公演は2020年の八代亜紀デビュー50周年に開催予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期し、2年越しの開催を迎えた。オープニングの「雨の慕情」からエンディングの「舟唄」まで、全編を通して"八代演歌"で客席のパリジャンからスタンディングオベーションが起こった。

絵に関して

歌手活動だけにとどまらず、画家としても活動した。画家志望であった父親の影響により、小学生のころは将来画家になるつもりだった。また父親も、八代には歌手ではなく画家になってもらいたかったという[5]

子供のころから水彩画を描いていたが、40歳ごろに油絵の質感に惚れ込んで市川元晴に師事した[33][34]。それ以来、写実的な油絵を描いていた[27]。フランス「ル・サロン」展に1998年から5年連続で入選し、日本の芸能人として初の正会員(永久会員[8])になった[5]

歌と絵について本人は「歌うことも絵を描くこともエネルギーがいるけど、私の場合は歌という肉体労働で酷使した自分を、絵を描くことでマッサージしている感じ」と語っていた[27]

ボランティアなど

面倒見の良い両親の影響もあり、若いころからボランティア活動をしていた[注釈 13]。1981年より女子刑務所の慰問公演を始め、その後は老人ホームや福祉施設にも赴くようになった。2000年、日本全国すべての女子刑務所を訪問した[35]

ペルー元大統領・アルベルト・フジモリの両親が熊本県出身ということでフジモリを支援し、ペルーへのボランティア活動も行っていた。1994年にはペルー共和国のラ・メルセにヤシロアキ工業技術学校を設立した。

2011年の東日本大震災の後、何度か被災地に訪れて支援活動を行った[注釈 14]。また、体育館で避難所暮らしをする被災者のために、当時の八代市長や市内の畳業者[注釈 15]の協力を得て数千枚の畳を宮城県石巻市や東松島市などに届けた[36][35]

2016年4月に故郷で起きた熊本地震の後、被災地での無料コンサートへの参加や義援金を渡すなどの支援活動を行った[37]

故郷での社会貢献活動

2002年に八代市の商工会議所などを中心とした「八代亜紀と共に明日の八代をつくる会」が発足し[8]、八代市の活性化を考える会合などに参加していた[38]。この会をきっかけに熊本や八代市での社会貢献活動が増えた[8]

八代市で毎年5月に開かれるウォーキングイベント「九州国際スリーデーマーチ」に、2002年から毎年ゲスト出演しており、会場で絵画展やミニライブを行っていた[39]。2017年の大会では八代にちなんだ「八代亜紀絵画コース」(10km)というコースもあった[40]

2003年からは八代地域の活性化を目的とした「八代亜紀絵画コンクール」の名誉会長を務めた。同コンクールには、八代が選ぶ「八代亜紀大賞」「八代亜紀賞」などの賞がある[41]

2004年に熊本県の観光や物産をPRする「くまもと誘友大使」の名誉大使第1号に就任[8][42]。また、八代市をPRする「八代よかとこ大使」としても活動[38]。さらに2009年から熊本市親善大使に就任した[43]

熊本県の文化振興活動の功績を讃えられ、2012年に「第22回くまもと県民文化賞」の特別賞を受賞した[44]。また、2015年には八代市から市民栄誉賞を受賞された[45]

2019年、熊本で開かれた世界女子ハンドボール選手権の大会特別サポーターに就任し、同大会テーマソング「Hand in Hand~つなぐ想い~」の歌唱も担当した[46]

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多方面での活躍

1973年に「なみだ恋」が大ヒットした後、トラック運転手から“トラック野郎の女神”として絶大な支持を得るようになり「八代観音」と呼ばれる八代の顔を模したデコトラも出現した。これがきっかけとなり、1977年に東映映画『トラック野郎・度胸一番星』に女ダンプ運転手「紅弁天」役で出演し、八代の曲「恋歌」が挿入歌として使用された。配給収入は10億9000万円を記録。当時の「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)出演時に、実際に運転して撮影したと話している。

1994年、少年漫画『とっても!ラッキーマン』で「ラッキー・クッキー・八代亜紀」というギャグが使われている。同作がアニメ化した際に本人がオープニングとエンディングを担当し「ラッキー・クッキー・八代亜紀」と歌唱した。[47]

2005年から2006年に放送された朝日放送(ABC)トリハダ 〜感じるボロ〜ン〜』では、バラエティ番組のレギュラー司会を初めて担当した。

2012年に故郷である熊本県八代市に新設された熊本県立八代清流高等学校の新校歌制作を依頼され「故郷の若者がふるさとを思い、愛する気持ちを持ってもらえれば」と快諾し、自ら作詞・作曲した校歌を贈った[48]

2013年、日本のヘヴィメタルフェス『LOUD PARK13』で鉄色クローンXのライブに飛び入り参加した[49]

その他エピソード

厚化粧のイメージがついて回っていた時期があり、ギャグのネタにされたり、嘉門達夫に「リバーサイドホテル」の替え歌で「誰も知らない素顔の八代亜紀」と歌われるなどしていたが、彫りの深い顔立ちをしているだけで、実際の化粧は薄い[50][51]。八代はその後、化粧品のテレビCMにすっぴんで登場し「ざまあ見ろ!」というセリフを発していた。2001年に発行された書籍「素顔」の帯にも、この文言がダブル・ミーニング的に使用されている[52]ビートたけしも「(八代は)厚化粧で、笑うとヒビが入る」などのギャグを飛ばしていた[53]

「お酒はぬるめの燗がいい」「肴はあぶったイカでいい」という歌詞が冒頭に登場する「舟唄」を歌っていたが、本人は「炙ったイカは好きなものの、酒は呑めない」とのこと[54][55]

王貞治から846号目の本塁打を打った際のバットを贈られ、礼として王の肖像画を描いて贈った[56]。号数は語呂合わせで「やしろ」とかけている[57]

「舟唄」は多くの歌手にカバーされている。梶原しげるがイングリッシュ演歌としてカバーしたほか、2006年にコーヒー飲料・ボスのCMでトミー・リー・ジョーンズが歌い話題になった。八代本人も2001年に発売したアルバム『MOOD』では同曲をラップ調にアレンジして歌っている。

学園モノのコメディ漫画『ハイスクール!奇面組』では、八代の名前を使ったダジャレ「三畳紀 ジュラ紀 白亜紀 八代亜紀」が登場する[58]

1994年に元歌手でマネージャーだった男性と結婚した[1]。父の助言で八代からプロポーズしたという。しかし2021年1月に離婚した[1][59]

2006年1月6日、タイヨーエレックのパチンコ台「CR 演歌の歌姫 八代亜紀」が稼動した。

生前は猫を飼っており、保護猫歴は60年。愛猫の絵を描いたこともある[60]

俳優の新田純一とは公私ともに親しく、ラジオなどでも共演機会が多かった。新田の妻が八代のヘアメイクを長年担当していており、八代の療養の際にも事務所スタッフとともに、ほぼ付きっきりで寄り添ったという。新田は八代の危篤の報を受けて駆け付けており、臨終も夫妻で看取っている[61]

2025年4月21日、ニューセンチュリーレコードが『八代亜紀 お宝シリーズ 第一弾 忘れないでね』を発売[62][63]。八代のフルヌード写真2枚が封入され物議を醸した。

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受賞歴

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ディスコグラフィ

要約
視点

シングル

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配信限定シングル

さらに見る 発売日, タイトル ...

デュエット・シングル

※上記シングル曲リスト掲載の「夜更けの二人」「熱海あたりで」「あした天気になーれ」「クレオパトラの夢」以外のタイトル。

さらに見る 発売日, デュエット ...

委託制作盤

さらに見る 頒布時期, A/B面 ...

アルバム

※オリコン100位内にチャート・インした作品のみ掲載

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近年のオリジナル、ライブ、企画アルバム

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タイアップ曲

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映像作品

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楽曲提供

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書籍

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NHK紅白歌合戦出場歴

さらに見る 年度, 放送回 ...

(注意点)

  • 対戦相手の歌手名の( )内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
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座長公演

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出演

要約
視点

映画

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劇場アニメ

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テレビドラマ

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ドキュメンタリー番組

  • 八代亜紀 ブラジルで「にほんのうた」を歌う(BSジャパン、2012年12月30日)
  • 人生指南紀行 女の横町 東京・人情編(NHK BSプレミアム、2014年8月20日) - ナレーション
  • 人生指南紀行 女の横町 地方・旅情編(NHK BSプレミアム、2014年8月27日) - ナレーション
  • 八代亜紀 ブルース、魂の叫び〜聖地メンフィス、ミシシッピ・ブルース街道へ〜(BSフジ、2015年11月13日)

バラエティ・教養番組

ラジオ番組

  • ラジオ喫茶 八代(ラジオ日本、2012年10月1日 - 2016年3月28日)
  • 八代亜紀 RADIO PALETTE〜音のアトリエ〜(JFN系、2013年10月 - 2018年3月)
  • 今日も八代亜紀晴れ(かっぱFM
  • ムーンラウンジ八代(ラジオ日本、2016年4月4日 - 2023年12月)

CM

ほか多数

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脚注

外部リンク

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