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妙見菩薩

仏教の天部の一尊、北極星・北斗七星の神格化 ウィキペディアから

妙見菩薩
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妙見菩薩(みょうけんぼさつ、旧仮名遣:めうけんぼさつ)は、北極星または北斗七星を神格化した仏教天部の一つ。尊星王(そんしょうおう)、妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)、北辰菩薩(ほくしんぼさつ)などとも呼ばれる[3]

概要 妙見菩薩, 名 ...

概要

要約
視点
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妙見菩薩像(千葉県市川市大野町 本光寺

妙見信仰の由来・拡散

妙見信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教北極星北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである[4]。「菩提薩埵」とは、本来「ボーディ・サットヴァ」(梵語:bodhisattva)の音写で、「菩提を求める衆生」の意であり、十界では上位である四聖(仏・菩薩縁覚声聞)の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら実質は大黒天毘沙門天弁才天と同じ天部に分類されている[4][5]

インドにも北極星(ドルヴァ)や北斗七星(サプタルシ)への信仰はあるが、日本にはほとんど伝わらなかった。妙見菩薩はほぼ道教由来の神格と考えるべきである。

道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられる[6]。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである[7]

妙見信仰は中国の南北朝時代には既にあったと考えられているが、当時からの仏像は未だに確認されていない[8]。妙見を説く最古の経典は晋代失訳『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』(西暦317~420年[9][1]大正蔵1332)である[1]

我北辰菩薩名曰妙見。今欲說神呪擁護諸國土。所作甚奇特故名曰妙見。處於閻浮提。眾星中最勝。神仙中之仙。菩薩之大將。光目諸菩薩。曠濟諸群生。

(我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見と曰ふ。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す。所作甚だ奇特なり、故に名づけて妙見と曰ふ。閻浮提に処し、衆星中の最勝、神仙中の仙、菩薩の大将、諸菩薩の光目たり。広く諸群生を済ふ。)七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経 第二巻[10]
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妙見本宮 千葉神社(千葉市)

ここでは、妙見菩薩の神呪を唱えることで国家護持の利益を得られるとされている。

唐代に入ると妙見信仰が大きく発展し、妙見関連の経典や行法が流布した。円仁の旅行記『入唐求法巡礼行記』から、当時の中国では妙見信仰が盛んであったことが窺える[1]

妙見信仰が日本へ伝わったのは7世紀(飛鳥時代)のことで、高句麗百済出身の渡来人によってもたらされたものと考えられる。当初は渡来人の多い近畿以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により東国に移住させられた影響で東日本にも広まった。正倉院文書(752年頃)に仏像彩色料として「妙見菩薩一躰並彩色」の記事、また『続日本紀』(巻三十四)には上野国群馬郡(現・群馬県高崎市)にある妙見寺に関する記載がある[注釈 1][4][11]

妙見信仰の発展

信濃から関東・東北にかけての牧場地帯に多く見られる信仰で、「七」を聖教とし、将門伝説とは関係が深い[12]。 北斗七星の内にある破軍星(はぐんせい)[注釈 2]にまつわる信仰の影響で、妙見菩薩は軍神として崇敬されるようになった。密教経典『仏説北斗七星延命経』(唐代成立、大蔵経1307)[13]では破軍星が薬師如来と同一視されたことから[注釈 3]、妙見菩薩は薬師如来の化身とみなされた[14][15]。なお、薬師如来のほか本地仏に十一面観音[4][16]あるいは釈迦如来[17]を当てる例もある。

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千葉氏が使用した九曜紋の中央の星が北極星(妙見菩薩)を表すという説がある[18]

中世においては、鷲頭氏、大内氏、千葉氏九戸氏が妙見菩薩を一族の守り神としていた。千葉氏は特に妙見信仰と平将門伝承を取り込み、妙見菩薩を氏神とすることで一族の結束を図った[注釈 4]。千葉氏の所領であった地域にも、必ずと言っていいほど妙見由来の寺社が見られる。千葉氏の氏神とされる千葉妙見宮(現在の千葉神社)は源頼朝から崇拝を受けたほか、日蓮も重んじた。また、千葉氏が日蓮宗中山門流檀越であった関係で妙見菩薩は日蓮宗寺院に祀られることが多い[6][19]

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玄天上帝(真武大帝)

中世初期に中国から伝来し陰陽道に取り入れられた「太上神仙鎮宅七十二霊符」(「太上秘法鎮宅霊符」とも)と呼ばれる72種の護符を司る鎮宅霊符神道教真武大帝に比定)とも習合された。大阪府にある小松神社(星田妙見宮)では元治元年(1865年)の鎮宅霊符の版木が伝わっており、現在もこの霊符が配布されている[4][20]。妙見信仰の聖地として有名な能勢妙見山(同府豊能郡能勢町)でも鎮宅霊符神と妙見菩薩が同一視されている[21]

以上に加えて、地域によっては水神、鉱物神・馬の神としても信仰された。能勢がキリシタン大名高山右近の領地であったことと、キリシタンの多い土地に日蓮宗の僧侶が送り込まれたことから、隠れキリシタンは日蓮宗系の妙見菩薩像(いわゆる能勢妙見)を天帝(デウス)に見立てたともみられている[4]

江戸時代平田篤胤復古神道においては、『古事記』や『日本書紀』に登場する天之御中主神は天地万物を司る最高位の神、または北斗七星の神と位置づけられた。その影響で、明治維新の際の神仏分離令によって「菩薩」を公然と祀れなくなってしまった多くの妙見神社の祭神が天之御中主神に改められた[4]

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像容

妙見信仰には星宿信仰に道教密教陰陽道などの要素が混交しており、像容も一定していない。吉祥天に近い姿[22]、忿怒形や童子形、他に甲冑を着けた武将形で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物で北方の守り神)に乗るもの、唐服を着てを持った陰陽道系の像など、さまざまな形がある。

日本で重要文化財に指定されている妙見菩薩の彫像は、読売新聞社所有(よみうりランド内聖地公園保管)の1体のみである。この像は、正安3年(1301年)の銘があり、もと伊勢神宮外宮の妙見堂にあったものとされる。しかし、この像は甲冑を着け、右手に剣を持ち、頭髪を美豆良(みずら)に結った特殊な像容を示し、所伝通り妙見菩薩と呼ぶべきかどうか若干疑問の残るものである。

真言・種字

真言

妙見帰命心真言
  • 「オン ソチリシュタ ソワカ」[23]
    • 「オン ソヂリシュタ ソワカ」[24][15]
妙見心中心呪
  • 「オン マカシリエイ シベイ ソワカ」[24]
    • 「オン マカシリエイ ヂリベイ ソワカ」[15]
妙見真言(『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』より)
  • 「ボチテイ トソタ アジャミタ ウトタ クキタ ハラチタ ヤビジャタ ウトタ クラチタ キマタ ソワカ」
    • 「ロクチテイ トソタ アジャミタ ウトタ クキタ ハラテイタ ヤビジャタ ウトタ クラテイタ キマタ ソワカ」
(目低帝 屠蘇吒 阿若蜜吒 烏都吒 具耆吒 波頼帝吒 耶彌若吒 烏都吒 拘羅帝吒 耆摩吒 莎呵[注釈 5][26]

種字

種子(種子字)は(सु、su)[27]

寺社

要約
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寺院

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能勢妙見山 開運殿(本殿)

以下は妙見菩薩を本尊とする、あるいは妙見信仰にゆかりのある寺院の数例である。

相馬中村神社にあった妙見菩薩像が神仏分離令により明治3年に当山本堂に移動された[28]
相馬小高神社にあった妙見菩薩像が神仏分離令により明治5年に当山に移動された。
平良文の流れを汲む千葉氏相馬氏らの妙見信仰の大本。
徳川家康の守り本尊といわれる妙見菩薩像がある[29]
境内には平将門配下の武将の子孫・綿貫家に伝わる妙見菩薩像(現存せず。今ある妙見像は2代目)を祀るために弘化5年(1848年)に創建された妙見堂がある[30]
一説では平良文が創建した妙見宮が当山の前身といわれている。嘉禎元年(1235年)に秩父神社が落雷によって焼失すると秩父神社に妙見菩薩が合祀されることとなり、その150年後に妙見宮の跡地に新たに寺院(今の廣見寺)が建てられた[31]
に乗る妙見菩薩(鷲妙見大菩薩、鷲大明神)が当山鎮守として祀られている。開帳日の11月酉の日には酉の市が開催される[32]
妙見菩薩に基づき「政」と号した葛飾北斎が崇敬していた寺院として知られている。
  • 妙見山別院(東京都墨田区)
東京都にある能勢妙見山の別院。勝小吉勝海舟親子の信仰を得ていたことで有名。
境内の妙見堂に法華経寺の第3世貫首・日祐よりいただいた、千葉胤貞軍陣鎮護の妙見菩薩像が安置されている[33]
598年(推古天皇6年)に蘇我馬子が開基した寺院と言われている。本尊は十一面観音。群馬県の妙見寺はここから勧請されたという説がある。
妙見山の山頂付近にある寺院。日本三大妙見の一つに数えられる。
妙見山の中腹にある、天台宗より派生した妙見宗の総本山。
本尊は妙見大菩薩。

神社

以下は妙見菩薩を祀っていた神社の数例である。

九戸氏の氏神。現在の祭神は天之御中主神と宇迦之御魂神[35]
現在の祭神は天之御中主神ほか7柱。
古くは知々夫国造の祖神・八意思兼命と知々夫彦命を祀る神社(式内社)。嘉禎元年(1235年)に焼失した社殿の再建に際して神社北東の妙見宮(一説では廣見寺付近)の妙見菩薩が合祀され、神仏分離まで「妙見宮」として知られるようになった。明治以降は妙見菩薩が天之御中主神に改められている。
  • 我野神社(埼玉県飯能市)
祭神は天之御中主神、建御名方神日本武尊の3柱。
延長2年(924年)、肥後国(現・熊本県)の八代神社から勧請されたと伝わる。現在の祭神は天之御中主神[36]
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千葉神社 尊星殿
  • 両総六妙見(千葉六妙見)
桓武平氏千葉氏にゆかりのある下総国(千葉・飯高・印西[注釈 6])と上総国(周西・横田・浦田)に位置する6寺社。
千葉氏の氏神。当初は妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮・北斗山金剛授寺)であったが、神仏分離によって神社となった。現在は祭神を天之御中主神とし、「北辰妙見尊星王」をその異称としている[37]
明治初年に当社の妙見菩薩像が別当寺であった妙福寺に移された。祭神は天之御中主神[38]
平将門[39]あるいは平忠常(良文の孫)[40]が勧請したと伝わる。現在の祭神は天之御中主神以下の造化三神。
平忠常が治安元年(1021年)に創建したと言われる。祭神は天之御中主神ほか9柱。
大同年中(806年~810年)創建と伝わる神社で、千葉常胤の崇敬が厚かった。祭神は天之御中主神[41]
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小松神社(星田妙見宮)の鳥居
元々は千葉妙見宮(千葉神社)の末寺。祭神は天之御中主神以下の造化三神天日鷲命
千葉氏の一族である馬加氏が創建した神社。現在の祭神は天之御中主神。
鎮宅霊符神と混交した妙見菩薩が祀られていた。現在の祭神は天之御中主神。
主祭神は名草彦大神で、副祭神は天之御中主神以下の造化三神ほか3柱。
主祭神は妙見尊。
日本三大妙見の一つに数えられる。祭神は天之御中主神と国常立尊
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信仰塔

脚注

関連項目

外部リンク

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