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宮本四郎
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宮本 四郎(みやもと しろう、1952年5月28日 - 2006年6月19日)は、1970年代半ばから1980年代半ばにかけて活躍したプロ野球選手。ポジションは投手。左投げ左打ち。
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来歴・人物
三重県松阪市出身。地元の三重高校では、投手として甲子園に3回出場。2年生時の1969年春の選抜では、決勝で堀越高を降し初の全国制覇[1]。同年夏の選手権は1回戦で広陵高に惜敗[2]。いずれも1年上のエース上西博昭の控えにとどまり、登板機会はなかった。翌1970年春の選抜は背番号1を付け、主戦投手の1人として甲子園のマウンドを踏む。平安高との1回戦で先発するが、早々に打込まれ降板、その後の登板はなかった。チームは準々決勝まで進んだがエース島本講平を擁する箕島高に敗れた[1]。高校同期に伊藤泰憲、1年下に水谷新太郎がいた。高校卒業後は中京大学へ進学。愛知大学野球リーグでは在学中3回優勝、リーグ通算18勝を記録。
1974年のドラフト2位指名で大洋ホエールズに入団。主に中継ぎとして活躍する。1978年には左腕投手の間柴茂有が日本ハムファイターズへ移籍したこともあり、先発としても起用され、自己最多の41試合に登板し2勝をあげる。
1980年暮れに宇野輝幸捕手との交換トレードで、阪急ブレーブスに移籍。ここでも当初は中継ぎでの登板が多かったが、先発左腕がいないチーム事情もあり、1984年には24試合に先発として起用される。同年は8勝6敗、防御率3.99(12位)を記録し、チームのリーグ優勝に貢献。同年の日本シリーズでも2試合に登板した。1987年には金銭トレードで阪神タイガースへ移ったが、出番はあまり無く、同年オフに現役引退。
引退後は阪神タイガースの打撃投手やスカウトを務め、退団後は台湾プロ野球・和信ホエールズのコーチを経て、2004年以降は横浜ベイスターズのスカウトとして活躍した。
2006年6月19日、宿泊先の愛知県名古屋市内のホテルで脳内出血を発症、死去した。54歳没。
クセ球が持ち味、左オーバースローでゆったりとしたテークバックから腕の振りをいかに速くするかが課題だった。球種はストレート、カーブ、シンカー、フォークだが、1984年に落ちるシュートを覚え投球に幅が出来た。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- 初登板:1975年4月15日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に2番手で救援登板、1回無失点
- 初奪三振:1975年4月16日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に池辺巌から
- 初先発:1977年4月15日、対中日ドラゴンズ1回戦(川崎球場)、5回2/3を4失点で敗戦投手
- 初勝利・初先発勝利:1978年4月20日、対ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場)、6回2/3を1失点
- 初セーブ:1979年4月21日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、9回裏2死に5番手で救援登板・完了、1/3回無失点
- 初完投:1981年8月13日、対近鉄バファローズ後期6回戦(日生球場)、8回1失点で敗戦投手
- 初完投勝利:1984年6月29日、対ロッテオリオンズ14回戦(阪急西宮球場)、9回1失点
背番号
- 44 (1975年 - 1980年)
- 24 (1981年 - 1986年)
- 34 (1987年)
- 92 (1988年 - 1992年)
- 101 (1993年 - 1999年)
- 41 (2001年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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