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小村徳男

日本のサッカー選手、監督 ウィキペディアから

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小村 徳男(おむら のりお、1969年9月6日 - )は、島根県松江市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者・解説者。現役時代のポジションはディフェンダー(DF)。元日本代表

概要 小村 徳男, 名前 ...

空中戦の強さとハードなプレーを売りに活躍したディフェンダー[2]

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選手経歴

松江市立乃木小学校松江市立湖南中学校出身[3]島根県立松江南高等学校時代からセンターバックとしてプレーするものの、当時は無名の存在だった[3]

順天堂大学へはスポーツ推薦ではなく学業推薦で入学、サッカー部に所属するものの当初は実質3軍に所属した[3]。大学2年時に1軍に抜擢され[3]、大学3年でレギュラーとなる[4]。この年は、順天堂大学蹴球部黄金期で数々のタイトルを獲得した[4]。大学卒業の翌年にJリーグ開幕を控え、当時JSLに所属しJリーグ参加を表明していたマツダ(サンフレッチェ広島)、松下(ガンバ大阪)、三菱(浦和レッドダイヤモンズ)、住金(鹿島アントラーズ)、日産(横浜マリノス)などからオファーが届いた中で、大学時代から代表で共にプレーした井原正巳とのプレーを選択する[4]

1992年、横浜マリノスへ入団[4]。Jリーグ開幕とともに井原とセンターバックのコンビで活躍。1996年11月9日広島戦では、DFでありながらハットトリックを達成した[5]。井原に次ぐセンターバックの人員として日本代表にも招集され、1998年フランスW杯アジア1次予選ではライバルのオマーン戦で1-0となる貴重なゴールを決めるなど、レギュラーとして起用された。しかし、アジア最終予選第2戦のアラブ首長国連邦戦では、井原がフリーキックを頭で合わせたボールはゴールに向かい、何もしなくても間違いなくゴールラインを割って得点となるところであったが、オフサイドのポジションに居た小村がボールを触って押し込んでしまったため、ノーゴールの判定をされて0-0の引き分けに終わった[6]。その後、チームが3バックを基調とした際に加わったもう1人のストッパーの秋田豊が存在感を示すと、岡田武史体制後4バックに戻した際に秋田がレギュラーとなり、さらにサイドバック要員の中西永輔がストッパーとして活躍し始めると、本大会では3バックにも関わらずベンチ要員となった。それでもグループリーグ第3戦ジャマイカ戦では前2戦で累積警告となった中西に代わって後半途中まで出場した。

2002年にベガルタ仙台へ移籍。チームの守備の柱として奮闘。

2004年からは地元島根に近いサンフレッチェ広島へ移籍。

2006年シーズン途中にJ2横浜FCへ期限付き移籍し、J2優勝に貢献。シーズン終了後には移籍元の広島からの戦力外通告に伴い完全移籍した。

しかし2007年シーズンにはチームがJ2へ降格し、シーズン終了後に戦力外通告を受ける。その後、地元である山陰からJリーグ参入を目指す日本フットボールリーグガイナーレ鳥取へ移籍。2008年シーズン終了後、「来年に向けて監督・チームとの信頼関係を築くことができず」として現役引退[7]

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引退後

2009年、JFAアンバサダー[8] として各地でサッカー教室を開催、同年Jリーグアウォーズにて功労選手賞を受賞。2010年、JFA 公認S級コーチライセンスを講習[8]

2012-13シーズンから、フジテレビワンツーネクストでのドイツ・ブンデスリーガ中継で解説者を務める。

2012年12月7日、2013年シーズンからガイナーレ鳥取の監督に就任することが発表された[9]。だが第28節終了時点で20位と低迷し、8月12日に解任された[10]

現在はサッカースクールSKYのコーチを務め、子供達の指導にあたる。

エピソード

所属クラブ

個人成績

さらに見る 国内大会個人成績, 年度 ...

その他の公式戦

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代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 30試合 4得点(1995年 - 2002年)[1]
さらに見る 日本代表, 国際Aマッチ ...

出場

さらに見る No., 開催日 ...

得点

さらに見る #, 開催日 ...

関連項目

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指導者経歴

監督成績

さらに見る 年度, クラブ ...

解任時点の成績。

脚注

  1. 1998年までは横浜マリノス

出典

関連項目

外部リンク

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