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井原正巳
日本のサッカー選手、監督 ウィキペディアから
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井原 正巳(いはら まさみ、1967年9月18日 - )は、滋賀県甲賀郡水口町(現:甲賀市)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者[3]。現役時代のポジションはディフェンダー(DF)。元日本代表。
1990年代のJリーグを代表するディフェンダー(センターバック)で「アジアの壁」と呼ばれ[4]、キャプテンとして1998 FIFAワールドカップに出場した。サッカー日本代表のA代表キャップ数122は遠藤保仁に抜かれるまで歴代1位であった[5]。
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プロ入り前
小学3年生の頃兄がプレーしていた[6]、貴生川サッカー少年団でサッカーを始めた[7]。水口中学を経て[8]、滋賀県立守山高等学校へと進学[8]、1年時からレギュラーを獲得、2学年先輩に美濃部直彦がいた[9]。1984年に全国高校サッカー選手権に出場した[6]。高校卒業後は筑波大学へ進学して蹴球部に所属した。大学入り前に行われた、ワールドユースに向けたセレクションのメンバーに選抜されたが、ディフェンダーのポジションには空きがあったことから「やってみないか?」と勧められたことがきっかけとなり[6]、フォワードからディフェンダーに転向した[10]。筑波では1986年、1987年に関東リーグと総理大臣杯で連覇を果たした[6]。筑波大学2年時に日本代表に選出された。
筑波大学時代、当時ディフェンダーだった中山雅史とセンターバックでコンビを組んでいた。二人はユース代表でもセンターバックを務め[11]、アルバイトも同じ所でするなど公私共に仲が良かった[11]。大学では教員免許も取得した[12]。
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クラブ経歴
日産、横浜マリノス時代
読売クラブ、全日空、古河電工、ヤマハなどからも誘いを受けていたが[13]、大学卒業後は日産自動車サッカー部(現:横浜F・マリノス)に入部、入団初年度はオスカー監督から守備的中盤として起用され、リーグ戦全試合に出場、三浦知良を抑えて日本リーグ新人王を受賞した[12]。1991-92年、1999/2-93年シーズンには天皇杯とアジアカップウィナーズカップの連覇に貢献した。オスカー監督退団時にはブラジルでプレーしないかとも誘われた[12]。
1993年Jリーグ開幕節 (5月15日) のヴェルディ川崎戦に出場、同年5月29日のジェフユナイテッド市原戦ではJリーグのオウンゴール第1号を記録した[14]。同年のJリーグオールスターサッカーには三浦知良やジーコらを抑え、ファン投票で最多得票を得て出場した[15]。1994年5月4日のヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを挙げた[16]。1995年はJリーグ1stステージで優勝を果たすと、Jリーグチャンピオンシップでは、ヴェルディ川崎戦の2ndレグでダイビングヘッドによる決勝ゴールを決め、マリノス初のJリーグ年間優勝に大きく寄与した[17]。
ジュビロ、レッズ時代
前身の日産時代から10シーズンをマリノスでプレーし「ミスターマリノス」とまで言われ[18]、当時のJリーグ日本人選手の中では最高額の年俸を貰っていたが[19]、マリノスからは契約延長を提示されず、コーチ就任要請を蹴って、2000年にジュビロ磐田へ移籍、当初はレギュラーとして出場していたが、鈴木政一が新たに監督に就任すると出場機会を大幅に減らした[19]。
2001年からは、以前日本代表で共に戦った福田正博が在籍していた浦和レッドダイヤモンズに移籍した。5月19日のガンバ大阪戦での移籍後初ゴールは[20]、現役最後のゴールとなった。同年行われた2002年W杯1次リーグの組み合わせ抽選会ではアジア代表としてドロワーを務めた。
2002年、2ndステージ、チームは開幕から引き分けを含め、9試合負けなしで一時は首位に立ったが、10節で鹿島に敗れると、6連敗でシーズンを終えた[21]。またこの年のJリーグカップでは決勝に進出したが、鹿島に敗れた。Jリーグ最終節、古巣横浜F・マリノス戦で先発フル出場をしたのを最後に[22]、チームメイトの福田正博と共に現役を引退した。Jリーグ通算297試合、5得点。2004年1月4日、国立競技場で引退試合が開催され、この時ゴールを決めた[23]。
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代表経歴
大学2年時に日本代表に選出され[3]、1988年1月27日のアラブ首長国連邦との親善試合でAマッチ初出場を果たした[24]。 1990 FIFAワールドカップ・アジア予選では朝鮮民主主義人民共和国に競り負け1次予選敗退。1992年のAFCアジアカップ1992ではグループリーグ最終戦のイラン戦で、グループリーグ敗退濃厚な中、試合終盤に起死回生となる三浦知良の決勝ゴールをアシストして決勝トーナメント進出に貢献[25]、決勝ではサウジアラビアを破って初のアジア制覇に貢献した。
1994 FIFAワールドカップ・アジア予選では、1993年5月5日開催の一次予選、スリランカ戦で代表初ゴールを挙げるなど、一次予選、二次予選の全試合に先発フル出場したが、あと一歩のところでW杯出場権を逃す「ドーハの悲劇」を経験した。1994年のアジア大会ではベスト8で敗退したが、その準々決勝の韓国戦で終盤に一時は同点となる目の覚めるようなスーパーロングシュートを決めた[26]。1995年以降、柱谷哲二が代表を退いて以降は、加茂周代表監督によってキャプテンに指名され、以降代表を外れるまでキャプテンを務めた[27]。
1998 FIFAワールドカップ・アジア予選最終予選では、第2戦のUAE戦でFKを頭で合わせると、このボールはゴールに向かい、間違いなくゴールラインを割って得点となるところであったが(決勝ゴールになる可能性が高かった。)、オフサイドのポジションに居た小村徳男がゴール欲しさからかボールを触って押し込んだたため、ノーゴールの判定[28]、この決果0-0の引き分けに終わる。この様なこともあり、苦戦を強いられながらも、アウェイでのウズベキスタン戦では、ロングフィードで試合終了間際に呂比須ワグナーの同点ゴールをアシスト[29]。最終節のカザフスタン戦で代表で最後となるゴールを決め[30]第3代表決定戦進出に貢献すると、イラン代表と決戦を制し、日本のW杯初出場へ導いた。3戦全敗となった1998 FIFAワールドカップでは、大会直前に負傷し[31]、出場も危ぶまれたが[32]、キャプテンとして[3] 全試合に先発フル出場した。
1999年、コパアメリカではグループリーグの2試合に出場したが、ボリビア戦で後半83分に、この試合で2度目の警告を受けて退場処分になった[33]。次の代表戦となったイラン戦は出場停止であったが、『フィリップ・トルシエ監督は「出場停止であるという理由のみで招集しなかった訳ではない。」とコメント[34]、以降再び招集されることはなかった。
指導者歴
要約
視点
引退後はNHKサッカー解説、TBSラジオ番組『スポーツBOMBER!』パーソナリティー(2003年度から下半期・木曜日担当)、日本サッカー協会認定のJFAアンバサダー、びわこ成蹊スポーツ大学客員教授、公共広告機構(現:ACジャパン)・骨髄バンクCMなど各方面で活躍。日本各地の少年サッカー教室に参加するなどサッカーの普及にも力を注いでいる。2005年には洪明甫と共に日韓親善大使に選ばれた。
2006年4月にJFA 公認S級コーチのライセンスを取得[1]。これにより、日本代表及びJリーグ監督に就任出来る事になった。
2009年2月、柏レイソルのヘッドコーチに就任[1]。同年7月、監督の高橋真一郎が解任され、後任監督が決定するまでの代行監督を務めた。2013年にはシーズン中に監督の辞意を表明したネルシーニョに代わって天皇杯の1試合指揮をとった(その後ネルシーニョは辞意を撤回)。2014年限りで柏との契約を満了し退任。
2015年よりアビスパ福岡の監督に就任[35]。 最終的には2位磐田と並ぶ勝ち点82の成績を収めたが、得失点差により順位は3位となりJ1自動昇格は叶わず、J1昇格プレーオフに回ることとなった。 そのプレーオフの決勝戦において、4位のセレッソ大阪と1-1で引き分けたが、年間順位で上回った為チームを5年ぶりのJ1の舞台に導いた。
2016年シーズンは5年ぶりとなるJ1の舞台で指揮を執ったが、J11stステージで2勝5分10敗、2ndステージで2勝2分13敗と苦しみ、1年でJ2降格となった。
2017年シーズンは21勝11分10敗で4位となり、J1昇格プレーオフに進出。決勝戦で名古屋グランパスと1年でのJ1復帰を賭けて対戦。試合は0-0の引き分けで終了し、レギュレーションによりJ2残留となった。
2018年11月17日、J2第42節・FC岐阜戦終了後の会見で、J1昇格を逃したことに対する責任を取り、辞任を表明[36][37]。 11月19日、アビスパ福岡の公式サイト上で2018シーズンをもって退任することが発表された[38]。
2018年12月13日、ネルシーニョの柏レイソル監督復帰に合わせて[39]井原も柏レイソルのヘッドコーチに復帰した[40]。2022年4月、左アキレス腱を断裂して手術を受けたネルシーニョが復帰した29日までの間、代行監督を務めた。柏での監督代行はこれで3度目となった。 2023年5月17日、チームの成績不振(リーグ戦2勝5分6敗の16位)で退任する事になったネルシーニョ監督の後任として、柏レイソルの監督に就任した[41]。8月以降の公式戦の成績は、7勝8分け2敗で、最終順位は17位と、何とかJ1残留を決めた[42]。一方の天皇杯では、決勝に進出したが、川崎フロンターレにPK戦の末に惜敗した。天皇杯決勝進出と、8月以降成績が持ち直し、J1に残留した手腕を評価され、2024年も監督を続投することとなった[43]。2024年シーズン、何とかチームをJ1に残留させることには成功したが、この年で監督を退任することとなった。
2025年からNHKのサッカー解説に復帰し、『Jリーグタイム』にも出演することとなった。また、同年6月にホンコン・チャイナで開催された国際大会「International Youth Invitational Football Cup at KTSP June2025」 において、U-20Jリーグ選抜チームの監督を務めた。
2025年6月28日、自身のウェブサイト上で韓国Kリーグ2の水原三星ブルーウィングスに7月からコーチとして加わることを発表した[44]。
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プレースタイルと評価
その鉄壁の守備から「アジアの壁」といわれ、冷静な判断と鋭い読み、向かってくる相手選手からボールを奪う上手さ、体をぶつけられても倒れない強さなど、ディフェンダーとしての要素を全て備えていた[45]、警告を受けることは余り無かったが、激しい当たりなど、肉弾戦も繰り広げた[46]。永島昭浩は、総合的に判断すると歴代最高のDFであったと評価した[47]。ペレイラも同様に、当時のJリーグの選手の中では最高のDFとして名前を挙げた[48]。また洪明甫か井原か、どちらがアジア最高のリベロか、という比較が日本、韓国メディアで盛んに行われていた[49]。
2020年にサッカーダイジェストが企画した、これまでのJリーグ歴代ベストイレブンを選ぶ企画では、様々な人物からJリーグ歴代のベストイレブンに選出された[47][50][51][52][53][54][55][56][57][58]。また阿部勇樹は幼少期の頃に好きだった選手として名前を挙げた[59]。
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所属クラブ
- 1983年 - 1985年 滋賀県立守山高等学校[1]
- 1986年 - 1989年 筑波大学[1]
- 1990年 - 1999年
日産自動車 / 横浜マリノス/横浜F・マリノス[1]
- 2000年
ジュビロ磐田[1]
- 2001年 - 2002年
浦和レッドダイヤモンズ[1]
個人成績
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 6試合0得点
- 1991年
- コニカカップ 7試合0得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1試合0得点
- 1995年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 1996年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- 2000年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
その他
- Jリーグオールスターサッカー選出 : 8回 (1993, 1994, 1995, 1996, 1997, 1998, 2000, 2002)
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背番号
- 4 - 横浜マリノス / 横浜F・マリノス, ジュビロ磐田, 日本代表・1998 FIFAワールドカップ時
- 7 - 日本代表・1994 FIFAワールドカップ・アジア予選最終予選時
- 3 - 浦和レッズ
個人タイトル
代表歴
要約
視点
出場大会など
- 1998 FIFAワールドカップ(キャプテン)
- サッカーの聖地ウェンブリー・スタジアムでの日本代表選手 唯一の得点者(1995)
イングランド代表戦(アンブロカップ)
試合数
- 国際Aマッチ 122試合(全試合先発出場) 5得点(1988年 - 1999年)[2]
出場
得点数
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指導歴
- 2006年8月 - 2008年8月
U-23日本代表 アシスタントコーチ
- 2009年 - 2014年12月
柏レイソル ヘッドコーチ
- 2009年7月・2013年9月 監督代行
- 2015年 - 2018年
アビスパ福岡 監督
- 2019年 -
柏レイソル
- 2019年 - 2023年5月 ヘッドコーチ
- 2022年4月 監督代行
- 2023年5月 - 2024年 監督
- 2019年 - 2023年5月 ヘッドコーチ
- 2025年7月 -
水原三星ブルーウィングス コーチ
監督成績
- 2009年は代行。
- 2023年は第14節より指揮。
出演
CM
テレビ番組
脚注
- 1992年から1998年までは横浜マリノス
出典
関連項目
外部リンク
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