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山下芳輝
日本のサッカー選手 ウィキペディアから
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山下 芳輝(やました よしてる、1977年11月21日 - )は、福岡県福岡市出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。
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来歴・人物
要約
視点
福岡県福岡市出身で、東福岡高校サッカー部でプレー。当時の東福岡高校は志波芳則監督の指導で隆盛期にあり、山下が3年生として参加した1995年度の第74回高校選手権では小島宏美とのFWコンビでベスト4に進出した。同期には生津将司、西政治、1学年下に古賀正紘、2学年下に本山雅志・手島和希、古賀大三らがいる。
高校卒業後、山下は1996年にJリーグへ同年昇格したアビスパ福岡へ入団。地元出身の希望の星として注目され、開幕戦[注 1] でJリーグデビューを果たした。以後、下位に低迷する苦しいチーム事情の中、上野優作と2トップを組み、1997年のJ1参入決定戦では1回戦(J1参入決定予備戦)の川崎フロンターレ戦で後半途中から出場し、ロスタイムに同点ゴールを決め[注 2]、クラブを2部(J2)降格の危機から救った。その後も福岡のエースとして活躍する一方、日本代表(五輪代表監督兼務)のフィリップ・トルシエ監督から2000年のシドニー五輪に向け1999年に開催されたアジア地区予選のU-22日本代表に選出された。オリンピック本戦出場はならなかったものの、その後の2001年にはトルシエ監督により日本代表(フル代表)にも招集され、FIFAコンフェデレーションズカップ2試合に出場した。しかし同年に福岡はJ2に降格し、山下は福岡と入れ替わりで1部(J1)に昇格したベガルタ仙台へ期限付き移籍した。
2002年、山下は仙台のエースとしてJ1リーグ全30試合に出場し、自己最高となる10ゴールを記録したが、同年の2002 FIFAワールドカップには登録されなかった。2003年にはジーコ監督により再び日本代表に招集されて1試合に出場したが、ゴールはならなかった。同年、仙台はJ2へ降格し福岡もJ1昇格に失敗したため、山下は再び移籍を希望して、2004年に柏レイソルへ完全移籍で入団した[注 3]。しかし柏では思うような活躍が出来ず、3シーズンの在籍中にリーグ戦23試合出場で1得点に終わった。その中で、2004年のJ1・J2入れ替え戦では古巣の福岡と対戦し[注 4]、2005年にはシーズン途中に大宮アルディージャへ短期の期限付き移籍を行い、2シーズンぶりの得点(結果的にJ1でのラストゴール)を決めたが、その間に柏がJ2降格となり、2006年には初めてJ2でのプレーとなった。
2007年、山下は日本フットボールリーグ(JFL)の栃木SCへ入団。チームのプロ化を急速に進める栃木の中心として期待された。同リーグではFC岐阜に在籍した小島宏美と対戦し、シーズン途中には上野優作が途中加入して6年ぶりにチームメイトとなった[注 5]。2008年、同じJFLのFC琉球で総監督に就任したトルシエは山下を呼び、チームに自分の指導を伝える役割も期待したが、チーム目標だったJリーグ参加や上位進出はならなかった[注 6]。2010年シーズン後にFC琉球との契約が終了し、2011年3月に現役引退を発表した[3]。
引退後は地元福岡県でスポーツイベントの企画・運営を行う会社を立ち上げ、社長に就任[4]。
なお、仙台時代の応援歌の原曲はTHE MODSの「PRISONER(野獣を野に放て)」 。柏時代はTHE HIGH-LOWSの「スーパーソニックジェットボーイ」。
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所属クラブ
個人成績
その他の公式戦
- 1998年
- J1参入決定戦 5試合1得点
- 2004年
- J1・J2入れ替え戦 2試合0得点
代表歴
出場大会など
- 1997年FIFAワールドユース
- 2001年FIFAコンフェデレーションズカップ2001・ブラジル戦 (初出場:2001年6月4日)
試合数
- 国際Aマッチ 3試合 0得点 (2001年 - 2003年)
出場
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脚注
関連項目
外部リンク
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