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平浩二 (歌手)
日本の歌手 (1949-) ウィキペディアから
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平 浩二(たいら こうじ、1949年1月23日 - )は長崎県佐世保市出身の歌手である。本名:平 頼敏(たいら よりとし)[1]。所属事務所はナインプランニング[2]。4歳下の弟は、『おかあさんといっしょ』の3代目うたのおにいさんを務めたアニメソング歌手のたいらいさお[3]。
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経歴
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
- 佐世保市立花園中学校(現・佐世保市立祇園中学校)、長崎県立佐世保工業高等学校卒業[3]。大阪の船井電機に就職したが5ヶ月勤めた後、1967年に歌手を目指し上京。
- 1969年、テイチクレコードから『なぜ泣かす』でデビュー[3](1970年発売の『博多ブルース』をデビュー曲とする場合もある[1])。
- 1970年、『女の意地』(西田佐知子のカバー)が自身初のヒット[4]。
- 1972年、『バス・ストップ』(作詞:千家和也 作曲:葵まさひこ)がヒット[4]。オリコン最高11位。翌年には「夜明け前」、「名前は暁子」、「冬の駅」などがヒット[1]。
- 1978年、ワーナーミュージック・ジャパンへ移籍。
- 1982年、『バス・ストップ』が明治チョコレートのCMソングに採用され再発売。
- 1994年、ワコール「グッドアップブラ」CMソング『よせてあげて』発売。
- 2000年、芸能生活30周年を記念し初舞台「恋ひとひら」に出演。
- 2005年、フリーボードへ移籍。
- 2015年、佐世保市としては初の取り組みとして、初代 佐世保観光名誉大使の委嘱を受ける[5][6]。
- 2017年、株式会社ナインプランニングへ事務所移籍。
- 2021年4月5日、山口県でのコンサートのトーク中に頭痛を訴えて病院に救急搬送され、翌朝くも膜下出血の緊急手術を受けた[7]。順調に回復し[8]、5月17日にコンサート「夢スター『春・秋』」でステージ復帰を果たした[9]。
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エピソード
要約
視点
子供時代
造船関係の仕事をする父、母、6人きょうだい(3人の姉、弟と妹がいる)の8人家族で育った[3]。幼い頃は市営住宅で暮らしており、中学生の頃に一家で高台の一戸建てに引っ越した。3人の姉たちが当時芸能界で人気の御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)に夢中だったことが影響し、子供の頃から音楽に興味を持った[3]。小学校高学年になると将来の夢として歌手に憧れるようになり、長崎放送の童謡番組に予選を勝ち抜いて出演したこともある[3]。
中学入学後に吹奏楽部に所属して打楽器を担当[3]。高校進学後も吹奏楽部に入部したが、部員が10人しかおらず音楽の先生がいなかったため、指揮者もこなした。同時期に地元の柔道場に通い、2年足らずで黒帯をもらった[3]。
下積み時代
高校卒業後、大阪で就職して寮生活を始めたが、ギターが得意な寮仲間の弾き語りを聴いて歌手への夢が再燃[3]。父に歌手になることを相談すると作曲家・安藤実親[注釈 1]とのツテがあったことから、父子で東京に訪れて弟子入りを頼んでくれたという[3]。18歳の9月に会社を辞めて上京して安藤の内弟子となり、新宿にあった彼の家に住み込んで身の回りの世話をした。しかし半年後に安藤の許可を得て外弟子になり、新大久保のアパートに転居[3]。
ほどなくしてキャバレーに出ているハワイアンバンドのボーカル見習いとなり、たまにステージで歌わせてもらったのが初仕事となった[3]。給料を貯めて買ったギターで必死にコードを覚えた後、銀座の大きなクラブのバンドボーイに転身[3]。以降、休憩時間に近くのキャバレーや小さなクラブでギターの弾き語りをしてキャリアを積んだ。その内、歌手活動を支援してくれる人物が現れ、活動拠点となるナイトクラブを開店してもらえることになったのを機に、杉並区のアパートに引っ越した[3]。
歌手デビュー後
『なぜ泣かす』でデビューした頃、西田佐知子の『女の意地』を好んで弾き語りしていた。すると、日本音楽出版のプロデューサー・村上司にファルセットを用いた歌い方を高く評価された[3]。村上の勧めで、1970年に西田と競作という形で同曲のレコードを発売して35万枚のヒットとなった[3]。
その後1972年に『バス・ストップ』の大ヒットにより収入が増えたため、佐世保から親きょうだいを東京に呼び寄せ、杉並区の同じアパートにもう一部屋借りて暮らすようになった[3]。翌年、葛飾区新小岩にスナック「バス・ストップ」を開店し、以後姉に経営を任せ、本人もスケジュールを縫って時々店で歌を披露した(2018年に閉店)[3]。
デビューから20年が経った頃は、『よせてあげて』(ワコールのCMソング)などヒットもあり、キャバレーの仕事も入り続けて忙しかった[3]。2010年、4歳下の弟で歌手・たいらいさおと、故郷の佐世保で「兄弟コンサート」を開催した[3]。
妻との生活など
21歳頃、ラジオから流れる『女の意地』を聞いた中学3年生の少女が、平の大ファンとなった[3]。後日平が営業で訪れた常磐ハワイアンセンターの楽屋に、その少女が母親と共に会いに来て初対面[3]。交流を経て1980年に結婚し、その後子供ができたタイミングで世田谷区若林の賃貸マンションに引っ越した[3]。
その後、妻が見つけてきた府中市の築2年の中古の一軒家を購入して暮らし始め、2000年代前半に3階建てに建て替えた[3]。子どもたちの独立後は夫婦と義母の3人で暮らしている。また、後年には平のために「愛する君にありがとう」などの楽曲を妻が作詞・作曲している[3]。
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その他
笑うと前歯が出るため、デビュー当時のニックネームは「ビーバー」だった[3]。また、中学で吹奏楽部に入部した当初トランペットを希望したが、顧問から「お前は前歯が出てるからダメだ。シンバルをやれ」と言われたことから、打楽器をやることになった[3]。
既婚、息子と娘がいる[3]。
2015年5月に発売された「ぬくもり」の歌詞が、Mr.Childrenの「抱きしめたい」(1992年12月発売)酷似していることが12月に指摘される騒動に巻き込まれた[10]。作詞には関わっていないが、所属レコード会社の徳間ジャパンコミュニケーションズの公式サイトを通じ、歌い手として謝罪した[10]。
ディスコグラフィ
シングル
- レーベル
- 1〜18:テイチク(1969年〜1976年)
- 19〜29:ワーナー・パイオニア(1978年〜1994年)
- 30〜33:フリーボード(2006年〜2012年)
- 34・35:徳間ジャパン(2015年〜2016年)
- 36以降:夢レコード(2018年〜)
- 「TAKAKO」は、平の妻・高子淑江のペンネーム[11]。
デュエット・シングル
アルバム
オリジナル・アルバム
- 1st.「哀愁とバラード」(1972年10月、CF-15)
ベスト・アルバム
- 全曲集…1989年、1992年、1994年発売。
タイアップ曲
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出演
テレビ
ほか多数
ラジオ
映画
- 女の意地 (1971.5.5公開、日活) 主題歌、歌手役で出演
CM
- 太平洋証券(日債銀・ワリシン)1985年 - テーマ曲歌唱
脚注
関連項目
外部リンク
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