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舟木一夫
日本の歌手 ウィキペディアから
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舟木 一夫(ふなき かずお、本名:上田 成幸(うえだ しげゆき)、1944年〈昭和19年〉12月12日 - )は、日本の歌手、タレント。橋幸夫・西郷輝彦とともに“御三家”と呼ばれている。学生服と八重歯がトレードマークで、デビュー当時は、学園ソングとよばれる、高校生活をテーマにした歌が多かった。
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概要
初期の所属事務所はホリプロダクション、現在のホリプロであった。
愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)出身。当初は舟木和夫という芸名になる予定であったが[注釈 1]、舟木が「和はひ弱な感じがあるので、一にして欲しい」と希望したために一夫になったという[1]。本人は、紙に書いたら字が縦に長くなって横倒しになりそうで頼りない感じがしたので、「和」を「一」にして“つっかえ棒”としてほしい、とお願いしたとも話している[2]。のびやかな美声で1960年代を中心にヒットを飛ばし、同じ時期にデビューした橋幸夫・西郷輝彦とともに「御三家」として人気を集める。青春ソングの定番「高校三年生」に代表されるように、学生時代を題材にした歌謡曲のほか、『銭形平次』のテーマソングのように、時代モノも数多く歌っている。また舞台などにも出演し、多彩な活動をしている。
略歴
要約
視点
デビューまで
1944年12月12日、愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)に生まれる。「燃えよドラゴンズ!99」のカップリング曲「ROCK'N ROLL ふるさと」の歌詞には生家への行き方が書かれている。父親は石川県河北郡津幡町笠谷の旧家の出で、父方の祖父は「立山伊次郎」の四股名で雷部屋に所属した力士であった[3]。本名の「成幸」は楠木正成と真田幸村の二人の武将から一字ずつとって命名された[2]。音楽に興味を持ちはじめたのは、1か月間肩叩きを続けたご褒美にと祖母からハーモニカをプレゼントしてもらったこと、ラジオで三橋美智也の歌を聴いたことがきっかけの一つ[4]。13歳年下の弟が出来たころ、家が貧しかったことから「誰かがこの家にお金を入れ続けないと。弟が物心つくまでに人並みの生活をさせてあげたい」として学校卒業後は自分の才能で短期間で稼ぎたいと考え、そんな時に友人の家のテレビで歌手を見て、これだと思い歌手を目指すようになった[5]。中学2年のときに父に頼み込み、中学の音楽の先生の紹介で指揮者の山田昌弘を紹介してもらい、名古屋市内の教室に通ってレッスンを受ける[6]。高校2年であった1962年2月、地元のCBCテレビの番組『歌のチャンピオン』に出場して松島アキラの『湖愁』を歌い、チャンピオンになる[6]。同年3月、名古屋市内のジャズ喫茶で行われた「松島アキラショー」で、ステージ上の松島アキラが『湖愁』を誰か一緒に歌わないかと客席に声を掛けたところ、前列に居た高校生が勢いよく手を上げた。少年は隣に居た同級生に手首を掴まれてのことであった。狐に摘まれた表情で舞台に上がった少年は、松島とともに「湖愁」を歌いきった。この少年こそ、後の舟木一夫である[7]。 偶然そこに取材に来ていた「週刊明星」の記者恒村嗣郎が目を付け、上田少年に氏名と住所を聞き、東京に帰ると、早速ホリプロの会長だった堀威夫に名古屋での出来事を話し、興味を持った堀は、電話で上田少年に歌のテープを送ることを依頼。そのテープを聴いた堀は、翌年5月上田少年を上京させ、日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇に紹介。斎藤は作曲家遠藤実にレッスンを受けさせることにし、上田少年は、愛知高等学校から転校した自由ヶ丘学園高等学校へ通いながら、遠藤実のレッスンを受けることとなった[7]。
上田少年は芸名を舟木一夫とし、ホリプロに所属することになった。社長の堀は、当時デビュー2年目で全盛期を迎え、舞台で時々学生服を着て歌っていた橋幸夫の対抗馬として、当時現役高校生だった舟木を学生服デビューさせると決定した[8]。
デビュー

1963年6月5日、デビュー曲は恩師遠藤実作曲、日本コロムビア専属だった丘灯至夫作詞の「高校三年生」と決定した。同年3月で高校を卒業していたが「学生服で行け」という遠藤実の指示で、歌謡界異例の学生服でのデビューとなった。「高校三年生」のレコードジャケットで舟木が着ているのは当時の母校の制服である[8]。
「高校三年生」は、発売1年で100万枚の大ヒットを飛ばし、舟木は第5回日本レコード大賞新人賞を、丘は作詞賞を受賞した。デビューから2ヵ月後、本人が主演した同名映画も大ヒットし、舟木は一躍スター歌手になった。それに続き、学園三部作と言われた「修学旅行」「学園広場」もヒットした。
1964年3月には初のワンマンショーを東京・浅草国際劇場で行う。当日には、地元・一宮市から東京駅まで国鉄がワンマンショー観覧客のための特別列車を運行させ、東京駅から浅草国際劇場まではパトカー先導の元で観光バス19台で移動するというほどまでになった[9]。
スター歌手に
1970年前後には、こうした青春ソング以外にも時代モノ、民謡調などの歌にも独特の持ち味で数々のヒットを飛ばした。テレビ時代劇『銭形平次』のテーマソング「銭形平次」も、番組のロングランもあって舟木の歌としてよく知られるところとなった。
また特に詩歌、文学をモチーフにした叙情歌謡と呼ばれるジャンルでは持ち前の歌唱を活かして第一人者的存在となり、「絶唱」「夕笛」「初恋」などがヒットし、1966年には「絶唱」で第8回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。このジャンルとしてはその集大成ともいうべきアルバム『その人は昔』がある。これは作家松山善三の長編抒情詩を正味1時間すべて舟木の歌唱で埋めるという、前代未聞の作品であり舟木の歌唱力が最大限に発揮されている。更にこの作品はLPとしては当時記録的な売上となり、後に舟木と内藤洋子の主演により映画化もされた。そしてこのLPおよび映画が劇画作家ながやす巧に影響を与え、その代表作『愛と誠』を生むきっかけとなった、という事実は、コミック界では有名なエピソードである[要出典] 。
低迷から復活へ

1969年までは高い人気を保持していたものの1970年に入ると、かねて多数出演していた歌謡映画が廃れ、テレビドラマでの需要が無くなり、それに追い討ちを掛けるが如く歌謡界の変化に伴い表立った仕事は激減し舞台と地方公演が主な活動の場となってゆく。それゆえに1970年・1971年・1972年に自殺を図るが未遂に終わり、1973年には心身の不調のため翌年まで10か月間静養することとなる。また、私生活でも可愛がっていた年の離れた弟が、死亡するという不幸にもあっている。
その後十数年に渡り不遇時代が続いたが、デビュー30周年プレ公演を機に、主に中高年女性のアイドルとして人気再燃、そのなかで「同じ青春を過ごした仲間にしか通用しない歌い手でいい」と述べている[10][11]。1997年には念願でもあった新橋演舞場での初座長公演を行う[12]。そして1999年には中日ドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ!'99」を歌い(舟木自身も大のドラゴンズファンである)、25年ぶりにオリコン40位ランクインを記録。
2007年にはデビュー45周年を迎え記念コンサートを行う。そして「単なる流行歌でない。何も変える必要はない。これでいい」と述べている。
2016年、第1回あらえびす文化賞・特別賞を受賞[13]。
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ディスコグラフィ
シングル
- すべて日本コロムビアからリリース。
- 舟木のペンネームは複数存在し、「高峰雄作」「里中さとる」「岩鬼まさみ」「すずきじろう」「幸田成夫」がある。
デュエット・シングル
企画シングル
4曲入りEP
アルバム
オリジナル・アルバム
リメイク・アルバム
カバー・アルバム
ライブ・アルバム
ベスト・アルバム
CD-BOX
映像作品
テレビ
ライブ
ミュージック・ビデオ
タイアップ曲
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楽曲提供
- 島倉千代子
- 『慕情はかなく』(1968年、作詞)※高峰雄作名義
- ミルク
- 『クリスタル・マイ・ラブ』(1980年、作詞)※KAZUO名義
- 村木弾
- 『ござる〜GOZARU〜』(2016年、作詞)
- 『都会のカラス』『さいはての月』(2017年、作詞)
- 『明日へ手拍子』(2018年、作詞)
- 『さんざし恋歌』(2019年、作詞)
- 竜小太郎
- 『Broken』(2003年、作曲)
出演
テレビ
テレビドラマ
- 大河ドラマ (NHK総合)
- 〜石坂洋次郎 青春シリーズ〜
- 東芝日曜劇場 第597回「川止め」(1968年、TBS)
- 泥棒育ちドロボーイ(1968年、NTV) - 骨董品屋のひとり息子 純一
- 恋愛術入門 第12話「イチ・タス・イチは?」(1971年1月10日、TBS / 国際放映) - 大川大三
- 柳生一族の陰謀 第30話『生きていた影武者』(1979年、KTV/東映) - 木下延由
- 12時間超ワイドドラマ 「赤穂浪士」(1999年、テレビ東京/東映) - 清水一学
- 連続テレビ小説「オードリー」(2000年10月2日 - 2001年3月31日、NHK総合) - 栗部 金太郎
- 水戸黄門(TBS/C.A.L.)
- 銭形平次(CX / 東映)
- 第3話「謎の夫婦雛」(1966年) - 秋月新太郎
- 第192話「春の風来坊」(1970年) - 半次郎
- 第233話「恋文悲願」(1970年) - 倉田仙三郎
- 第271話「虚無僧絵図」(1971年) - 小弥太
- 第323話「その名は呼べない」(1972年) - 美代吉
- 第394話「上州無宿鉄次郎」(1973年) - 鉄次郎
- 第888話 最終話「ああ十手ひとすじ!!八百八十八番大手柄」(1984年) - 立花左馬之介
バラエティ番組
- オールナイトフジ(司会者として出演)(フジテレビ)(1969年 - 1975年、ただしレギュラー放送は1971年まで。それ以降は毎年大晦日のみの放送となる。)
- ワニいってんの? (1987年、テレビ東京)
- 愛する二人別れる二人(フジテレビ)
- 主題歌「恋だけが」は、和製ソフトロックの隠れた傑作として知られている。CD『まちどおしい夏休み〜ドライブ編』に収録。
情報番組
- ルック!202(仙台放送)
- 低迷期に、メイン司会者として出演したローカル午後ワイド。外からの中継もこなした。
音楽番組
- 舟木一夫ショー(1965年4月4日 - 7月4日、TBS)
- 「ナショナル日曜観劇会」の次番組となる「サンデーわいわいワイドショー」が開始するまでの間の「つなぎ番組」として制作された。
映画
- 作品一覧
- 「高校三年生」(大映、1963年11月16日)
- 「学園広場」(日活、1963年12月15日)
- 「ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗」(東京映画、1964年2月12日)
- 「仲間たち」(日活、1964年3月14日)
- 「君たちがいて僕がいた」(東映、1964年5月23日)
- 「夢のハワイで盆踊り」(東映、1964年8月1日)
- 「続・高校三年生」(大映、1964年8月22日)
- 「あゝ青春の胸の血は」(日活、1964年9月9日)
- 「花咲く乙女たち」(日活、1965年1月24日)
- 「北国の街」(日活、1965年3月20日)
- 「東京は恋する」(日活、1965年9月18日)
- 「高原のお嬢さん」(日活、1965年12月4日)
- 「哀愁の夜」(日活、1966年3月27日)
- 「友を送る歌」(日活、1966年6月25日)
- 「太陽に突っ走れ」 (東映、1966年9月8日) - 本人
- 「絶唱」(日活、1966年9月17日)
- 「北国の旅情」(日活、1967年1月3日)
- 「一心太助 江戸っ子祭り」(東映、1967年4月20日)
- 「その人は昔」(東宝、1967年7月1日)
- 「夕笛」(日活、1967年9月23日)
- 「銭形平次」(東映、1967年10月10日)
- 「君は恋人」(日活、1967年11月3日)
- 「君に幸福を センチメンタルボーイ」(東宝、1967年12月16日)
- 「花の恋人たち」(日活、1968年1月3日)
- 「残雪」(日活、1968年3月30日)
- 「青春の鐘」(日活、1969年1月11日)
- 「永訣 わかれ」(松竹、1969年2月21日)
- 「いつか来るさよなら」(松竹、1969年12月17日)
- 「東京-パリ 青春の条件」(松竹、1970年3月18日)
- 「青春PARTII」(ATG、1979年2月10日)
- 「総長の首」(東映、1979年3月24日)
- 「小梅姐さん」(赤坂小梅生誕100年記念映画製作上映委員会、2008年11月8日)
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NHK紅白歌合戦出場歴
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書籍(エッセイ)
写真集
- 舟木一夫〜風まかせ〜(1999年/東京新聞出版局)
- 芸能生活40周年記念 写真集舟木一夫(2002年/マガジンハウス)
- 密着写真集「瞬」(2009年/マガジンランド)
- 密着写真集「華」(2010年/マガジンランド)
- 密着写真集「愁」(2011年/マガジンランド)
- 密着写真集「透」(2012年/マガジンランド)
- 舟木一夫 60周年写真集てんこもり 60th/77age Funaki Kazuo Photobook(2022年/舟木一夫)
後援会の不祥事
2009年5月12日、舟木一夫のファンクラブを経営している会社「舟木一夫友音事務所」が、ファンからの支援金など約1億6000万円を隠し、3年間で約5000万円を脱税したとして、同社と藤谷和子社長が法人税法違反罪で告発されていたことが発覚。同社は「カンパは預かり金で、売り上げではない」と主張したが、修正申告を行った。藤谷社長は、支援金は「将来、コンサート会場に空席が目立つようになってしまったら舟木さんが悲しむ。そのときの動員に使ってほしい」などと会員から寄せられたものであると説明した[14]。
その他の特記事項
- 舞台「快傑!!児雷也」
- 舟木はこの舞台で主題歌となる「快傑!!児雷也」を歌っている。舟木は以前より特撮ヒーロー物が好きで、特撮ヒーロー物の主題歌を歌いたいという意向があったが、スタッフにより却下されていた。のちにこの舞台を踏むにあたって、音楽を担当していた渡辺宙明(「人造人間キカイダー」「秘密戦隊ゴレンジャー」などで知られる)に、舟木が「ぜひ特撮ヒーロー物っぽい曲を作って欲しい」と頼み込んでこの曲が生まれ、かねてよりの夢が実現した[15]。演出には、舟木の希望で映画界の鬼才岡本喜八が迎えられた。岡本としては初の舞台演出であり、舟木とも初顔合わせであった。
- 趣味
- ファミコンなどのレトロゲーム愛好家である。特にドラゴンクエストシリーズを好む。
- 足の指の絆創膏
- 2012年ごろから舞台で歌う際には、必ず両足の親指と小指に絆創膏を貼っている。これはもともと歌う時に両足の内側に力が入る癖があったが、65歳頃から足の指にタコが出来て割れるようになったため、これを防ぐためのものである[16]。
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脚注
関連項目
外部リンク
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