トップQs
タイムライン
チャット
視点
楠安夫
日本の野球選手 (1920-2000) ウィキペディアから
Remove ads
楠 安夫(くすのき やすお、1920年6月21日 - 2000年10月9日)は、香川県高松市出身[2]のプロ野球選手(投手、捕手)・コーチ、解説者・評論家。
Remove ads
経歴
要約
視点
香川県高松市において酒の小売店を経営していた両親の間に次男として誕生する[2]。高松商業では投手として、徳島商業の林義一(大映→阪急)・松山商業の千葉茂(巨人)と共に、四国の投手ビッグ3と称された[3]。
高校卒業後は兄が在学していた慶應大学への進学を希望していたが、受験に失敗[2]。高松商業の先輩である水原茂の熱心な誘いもあり、1938年秋に東京巨人軍へ投手として入団[1]。1939年には6勝を挙げる。1940年に三塁手、1941年に捕手にコンバートされ[1]、1942年には応召した吉原正喜の後釜として正捕手となり、90試合でマスクを被った。その間徴兵逃れのために日本大学に籍を置いていたが、正式な卒業はしていない[2]。
1943年に応召。内地での演習中にトラックにはねられ右膝関節を挫傷し[4]、その影響もあってか内地に残り、板付飛行場の高射砲隊の下士官として終戦を迎える[5]。
復員後は郷里の高松に戻っていたが、市岡忠男の連絡により同年11月に行われた東西対抗戦にも出場[6]。巨人と1946年度の契約を結びチームに復帰するが、給料面で折り合いがつかず、さらに春のキャンプ中に結核と診断され、高松で療養生活を送るためチームから離脱する[7]。市岡代表には辞表を提出したが握りつぶされ、給料も支払われていなかったため、高松市長・國東照太が経営している会社に勤務していた[5]。
1947年に同じ高松市出身の西村正夫から、西村の経営していた堀貫帽子という会社の野球部監督就任を打診され、西村と話し合いを続けるうちに西村が所属している阪急への入団を打診される[5]。鈴木龍二立会いの下、阪急ブレーブスへの入団が理事会で承認されプロに復帰。阪急では戦前からの正捕手であった日比野武がいたために、しばしば一塁を守るなど出場機会には恵まれなかった。1950年の二リーグ分裂に伴って、西村から「阪急にいても金にならん。チャンスだからよそへ行け」との後押しもあり[5]、プロ経験がある選手の獲得を熱望していた新球団の西鉄クリッパースに移籍。当時は日比野、永利といった盤石な捕手陣が揃っていたため、阪急の村上球団社長も移籍を了承。しかしその後阪急は宇高勲による引き抜きを受け、捕手経験者が全員流出することになる。
1950年は西鉄の初代4番打者を務める。
1951年に西鉄と合併した西日本パイレーツから日比野武、永利勇吉が移籍してきたため、球団の構想から外れ、小島善平(パ・リーグ関西事務局長)の橋渡しで[5]、約10年ぶりに巨人へ復帰。復帰にあたって、読売新聞社副社長であった安田庄司の「あんなポンコツをとってどうする」との発言に奮起[8]。藤原鉄之助・武宮敏明を押しのけて正捕手となり、71試合にマスクを被って打率.292の好成績を挙げる。同年に行われた南海との日本シリーズでは、全試合にマスクを被って木塚忠助・蔭山和夫・飯田徳治ら「百万ドルの内野陣」の足をわずか1盗塁と完璧に封じ込み、巨人の2リーグ分裂後初の日本一に大きく貢献[9]。南海の監督兼四番打者として打率.421と気を吐いた鶴岡一人に「楠がマスク越しにいろいろ言うのが、一番イヤだった」と言わしめたほど、あらゆる面で頭脳プレーを見せた[8]。その後は、1952年にハワイから来日した広田順に押されて出場試合が徐々に減少した。
1955年に水原監督排斥運動に関与したとみなされて、手塚明治とともに大洋ホエールズへトレードされる[2]。目時富士雄の控えとして50試合に出場するが、同年引退。
引退後は夫人の勧めで洋服店を経営する傍ら、日本テレビ・日本教育テレビ・フジテレビ・ニッポン放送・文化放送解説者や日刊スポーツ評論家を務め、1968年からは別所毅彦監督の招聘でサンケイアトムズ→アトムズのヘッドコーチとなり、1969年まで務めた[10]。
その後健康食品メーカーも立ち上げ成功するなど、商売人としても成功した[11]。
2000年10月9日に死去。80歳没。
Remove ads
人物
大変な読書家で永井荷風を愛読しており[12]、大量の蔵書を誇っていた。また、本を大事にし、手作りの表紙を作って「楠蔵書」という判子を押し、全ての本に装着していた[13]。一方で牧野周一のモノマネも得意で、よく宴会で披露したという[12]。
幼少の頃から体格に恵まれており、小学6年生のときには健康優良児として表彰されている[2]。
兄・芳一も野球経験があり、春の甲子園にもショートのレギュラーとして出場している。そこで慶應大野球部監督の森田勇に見出され、慶大に進学[2]。しかし大学在学中に病死した[14]。
詳細情報
年度別投手成績
年度別打撃成績
記録
背番号
- 12 (1938年 - 1942年、1946年途中)
- 5 (1946年途中 - 同年終了)
- 2 (1947年)
- 3 (1948年 - 1950年)
- 27 (1951年 - 1954年)
- 1 (1955年)
- 50 (1968年 - 1969年)
登録名
- 楠 安夫 (くすのき やすお、1938年 - 1948年、1968年 - 1969年)
- 楠 協郎 (くすのき やすお、1949年 - 1953年)
- 楠 拡応 (くすのき やすお、1954年 - 1955年)
参考文献
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads