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琴乃富士宗義
日本の力士 (1951-) ウィキペディアから
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琴乃富士 宗義(ことのふじ むねよし、1951年11月7日 - )は、北海道虻田郡留寿都村出身で佐渡ヶ嶽部屋に所属した元大相撲力士。本名は藤沢 宗義(ふじさわ むねよし)。最高位は東前頭5枚目(1975年11月場所)。現役時代の体格は181cm、140kg。得意手は右四つ、寄り。
来歴・人物
要約
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幼少時から、相撲取りに憧れていた。留寿都中学校時代の恩師・奈良先生らの紹介で、15歳の時に佐渡ヶ嶽部屋へ入門し、1967年5月場所で初土俵を踏んだ。同期生には、後の関脇・麒麟児らがいる。
1972年11月場所に於いて、21歳で十両に昇進し、1974年7月場所で新入幕を果たした。
しかし、同場所の直前に横綱・琴櫻が引退し、場所中には師匠の第11代佐渡ヶ嶽(元小結・琴錦)が急逝してしまった。そのため、師匠に新入幕の晴れ姿を見せる事は叶ったものの、琴櫻の露払いを務める事はできなかった(ただし、7月場所の番付発表後に行われた神社への奉納土俵入りでは、露払いを務めている)。
当時としては大柄な体格を生かした寄りを得意としたが、怪我が多く、幕内と十両を幾度も往復した。
1975年9月場所では、西前頭11枚目の地位で10勝を挙げ、自身幕内で唯一の2桁勝利を記録(自身唯一の大関戦で魁傑に勝ったが、三賞受賞は逸した)。翌11月場所では、自己最高位となる東前頭5枚目に昇進した。
1977年3月場所では、東十両3枚目で14勝1敗と大勝して初めての十両優勝を飾り、翌5月場所で4度目の入幕を果たした。しかし8日目、豊山との取組中に左大腿部を痛め、9日目より休場。幕内の座を維持するため12日目から再出場に踏み切ったが、13日目より再び休場する事態に陥った。結局同場所では5勝を挙げるに留まり、翌場所、十両へと再陥落した。
その後、1979年9月場所で5度目の入幕を果たすも1場所限りで十両に下がり、以降2度と幕内へ返り咲く事は無かった。
最後は幕下50枚目まで番付を落とし、1982年1月場所後、30歳で現役を引退。その後は年寄・尾車を借株で襲名し、佐渡ヶ嶽部屋付きの親方として、後進の指導に努めた。
1985年11月13日、弟弟子の元大関・琴風が引退して新・尾車親方となった事により、借株を返上して廃業。
1986年7月、東京都新宿区神楽坂に相撲料理店「ちゃんこ料理 琴乃富士」を開店した。
以来、恵(めぐみ)夫人とともに店を経営し、京都府宇治市伊勢田町には支店を出している。主に東海地方において事業を展開する寿がきや食品から、即席カップ麺『琴乃富士のちゃんこラーメン』という商品が販売された事もある。1993年7月には、その半生を綴った著書『ちゃんこ番』を出版している。
2013年には、日本テレビ系バラエティ番組『嵐にしやがれ』内の『東京イイ店クドイ店』コーナーにて、彼ら夫婦が経営する相撲料理店が紹介された(File.19、2013年11月17日放送)。
現役時、双津竜順一と対戦経験があり佐渡ヶ嶽部屋での指導経験を持つ事から「時津風部屋力士暴行死事件」に関連してワイドショーへの出演機会が増え、2007年10月20日、テレビ朝日系討論番組『朝まで生テレビ! 激論“国技大相撲”に未来はあるか?』に「琴乃富士 宗義(元前頭5枚目、ちゃんこ店店主)」名義でパネリストとして出演した[1]。
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主な戦績
- 通算成績:511勝508敗21休 勝率.501
- 幕内成績:72勝104敗4休 勝率.409
- 現役在位:88場所
- 幕内在位:12場所
- 各段優勝
- 十両優勝:1回(1977年3月場所)
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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改名歴
- 藤沢 宗義(ふじさわ むねよし)1967年7月場所-1968年5月場所
- 琴乃富士 宗義(ことのふじ -)1968年7月場所-1972年9月場所
- 琴乃冨士 宗義(ことのふじ -)1972年11月場所-1975年7月場所
- 琴乃富士 太喜(ことのふじ たいき)1975年9月場所-1979年7月場所
- 琴乃富士 宗義(- むねよし)1979年9月場所-1982年1月場所
年寄変遷
- 尾車 宗義(おぐるま むねよし)1982年1月-1985年11月
著書
- 『ちゃんこ番』(飛鳥新社、1993年7月刊、ISBN 4870311429)
外部リンク
関連項目
参考文献
- 『戦後新入幕力士物語 第3巻』(著者:佐竹義惇、発行元:ベースボール・マガジン社、p688-p692)
脚注
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