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草間彌生

日本の芸術家、小説家 (1929 - ) ウィキペディアから

草間彌生
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草間 彌生[注 1](くさま やよい、1929年昭和4年〉3月22日[2] - )は、日本芸術家長野県松本市出身[3]京都市立美術工芸学校(旧・京都市立銅駝美術工芸高等学校)絵画科卒業[2]

概要 草間 彌生, 生誕 ...
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人物

幼い頃から悩まされていた幻覚幻聴から逃れるために、それらの幻覚・幻聴を絵にし始めた。1957年(昭和32年)に渡米すると絵画や立体作品の制作だけではなくハプニング[4]と称される過激なパフォーマンスを実行し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとった[5]

草間彌生のいくつかの作品は、水玉模様や網模様などの同一のモチーフ反復によって絵画の画面や彫刻の表面を覆うことが特徴の一つである。「無限の鏡の間」(インフィニティ・ミラー・ルーム英語: Infinity Mirrored Room)(1965年制作)など合わせ鏡を用いて光やオブジェを無限に広がるように見せるインスタレーションや、男根状のソフト・スカルプチュアによるオブジェを日用品などに張り付ける立体作品も制作している。カボチャをモチーフにした作品もしばしば見られる。 また、ファッションデザインや小説執筆などの活動も行う。

1962年に行われた、クレス・オルデンバーグアンディ・ウォーホルらも参加したグループショーに参加し、彼女ならではの表現を見せつけ、彼らのみならず様々なアーティストに「ソフト・スカルプチュア」などの影響を与えた[6]

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来歴

要約
視点

松本駅近くで種苗業を営む裕福な家に生まれ、幼いころから草花やスケッチに親しむ。その一方、少女時代から統合失調症西丸四方が診断)を病み、繰り返し襲う幻覚や幻聴から逃れるために、幻覚や幻聴を描きとめる絵を描き始める[7]。10歳頃からすでに水玉と網目模様をモチーフとしていた[2]。草間は現在に至るまで水玉(ドット)をモチーフに制作する事が多いが(ドット・ペインティング英語版)、これは耳なし芳一が幽霊から身を守るために全身を経で埋め尽くした様に、彼女が恐怖する幻覚や幻聴から身を守るために、作品全体を水玉(ドット)で埋め尽くす儀式でもある、とされる[要出典]

1945年(昭和20年)、大戦下に疎開してきた画家らが立ち上げた「第一回全信州美術展覧会」で並み居る顔ぶれの中16歳で入選[2]

1948年(昭和23年)、松本高等女学校(現:長野県松本蟻ヶ崎高等学校)を卒業後、京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)の4年生最終課程に編入して日本画を学ぶ。

1949年(昭和24年)、京都市立美術工芸学校絵画科を卒業[8]。後に役立つ絵画技法を身につけるが、旧弊な日本画壇に失望。松本の実家へ戻り、寝食も忘れ毎日数十枚以上を描き、没頭する。

1952年(昭和27年)、地元の松本市公民館(旧:松本市公会堂)で初めての個展を開く[2]精神科西丸四方が立ち寄り感銘し絵を購入。関東精神神経医学学会で紹介するほか、知人でゴッホ研究で有名な精神科医・式場隆三郎が、東京日本橋白木屋百貨店などのつてを紹介し縁を得る。2度目の個展では師と仰ぐ松澤宥に賛助出品してもらい、パンフレットに松澤宥と懇意だった当時著名な美術評論家瀧口修造らの寄稿文も掲載される。西丸博士と瀧口は、その後生涯にわたるよき理解者となった。

1954年(昭和29年)から翌年にかけ、東京で4度の個展を行う。白木屋百貨店ほか、瀧口の関わるタケミヤ画廊でも個展を行う。瀧口がニューヨークの第18回国際水彩画ビエンナーレへ彼女を紹介し、渡米の糸口を作る。この時期、素描のほかにコラージュなども量産している。

1957年(昭和32年)に渡米[2]。シアトルでアメリカ初の個展を行った後、1958年ニューヨークに移る[2]1959年、ポスト抽象表現主義作家が集まったことで知られるマンハッタン10丁目のブラタ・ギャラリーで個展を行ない[2]、「無限の網」(インフィニティ・ネット英語: Infinity Net)」等、5メートル近くになる大型絵画を5点発表する[9]。これらは網の目に見えることから80年代末以降「ネット・ペインティング」と呼ばれるようになる[9]。この作品はドナルド・ジャッドやドア・アシュトンらに注目され、草間はニューヨークでの活動の基盤を固めた[9]。絵画のみならず男根状のオブジェを既製品にはりつけた立体作品「トラヴェリング・ライフ」(1964年)などのインスタレーションを始め、ハプニングと称される過激なパフォーマンスも実行した。1962年に行われたクレス・オルデンバーグアンディ・ウォーホルなども参加したグループショーに参加し、彼らのみならず様々なアーティストに「ソフト・スカルプチュア」の影響を与えた。[10]1966年にはヴェネツィア・ビエンナーレにもゲリラ参加し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとった。平和・反戦運動にも携わる。1968年(昭和43年)、自作自演の映画『草間の自己消滅』が第4回ベルギー国際短編映画祭に入賞[2]、第2回アン・アーバー映画祭英語版で銀賞受賞。また、第2回メリーランド映画祭でも受賞。

1973年(昭和48年)、親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去すると、草間は体調を崩し日本へ帰国、入院した。これ以降、東京を活動拠点とする[2]1978年(昭和53年)に初の小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』を発表し、小説家としての活動を始める。1983年(昭和58年)には小説『クリストファー男娼窟』で第10回野性時代新人文学賞を受賞した[2]。小説もその芸術創作と主題がリンクしており、少女時代の幻視体験をモチーフにしたものもある。

草間の活動が再び活発になったのは1990年代初頭である。1993年平成5年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに日本代表として日本館初の個展を開く[2]。これを機に世界的に再評価する動きが高まった。2009年には正方形の絵画群である「わが永遠の魂」シリーズの作成を始める[2]。同年にauiidaブランドの端末をプロデュース、2012年にはルイ・ヴィトンとの共同コレクション(マーク・ジェイコブスによるディレクション)を発表するなど[2][11]、商業分野での活動も盛んに行なっている。2016年、『タイム』誌の世界で最も影響力がある100人に選ばれた[2]

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草間の作品を常設展示していたフォーエバー現代美術館(京都市祇園甲部歌舞練場の八坂倶楽部の建物)2019年閉館[12]
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YAYOI KUSAMA MUSEUM 草間彌生美術館(2018年)

草間彌生美術館」(東京都新宿区弁天町)が2017年10月1日に開設された。館長には建畠哲が就任[13]

現在の取扱代理画廊は、1980年代からオオタファインアーツ、2007年からVictoria Miro Gallery英語版、2013年からDavid Zwirner英語版である。

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年譜

主な展覧会

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主な作品

平面作品

  • 『無限の網(インフィニティ・ネット)シリーズ』(1959年~)
  • 『わが永遠の魂 シリーズ』(2009年~)

立体作品

インスタレーション作品
  • 水玉脅迫フランス語版(Dots Obsession)シリーズ』 (1963年~)
  • 『集合-1000艘のボート・ショー』(1963年)
  • 『トラヴェリング・ライフ』(1964年)
  • 『無限の鏡の間(インフィニティ・ミラー・ルーム)シリーズ』(1965年~)
パブリックアート作品
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『シャングリラの華』(2000年)霧島アートの森
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「Eyes Are Singing Out」(2012)ブリスベンジョージ・ストリート英語版
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ポルトガルリスボンメトロオリエンテ駅の草間彌生の壁画

楽曲

  • マンハッタン自殺未遂常習者の歌
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出版物

作品集

  • 『クサマトリックス』 角川書店、2004年ISBN 978-4048537414
  • 『草間彌生全版画集 1974-2004』 阿部出版、2005年ISBN 978-4872421743
  • 『わたし大好き』 INFASパブリケーションズ、2007年ISBN 978-4900785595
  • 『草間彌生、たたかう』 ACCESS Co.Ltd、2011年ISBN 978-4905448037 - ワタリウム美術館公式カタログ

小説

詩集

ノンフィクション

  • 『無限の網−インフィニティ ネッツ』 作品社、2002年ISBN 978-4878934650 - 自伝

特集

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映画

テレビ出演

その他の活動

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中央高速バス新宿〜松本線に使用されるアルピコ交通草間号・幻の花

関連項目

脚注

外部リンク

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