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角川博
日本の歌手、タレント (1953-) ウィキペディアから
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角川 博(かどかわ ひろし、本名:同じ、1953年12月25日 - )は、日本の演歌歌手、タレント。
来歴
角川家の墓は広島県高田郡吉田町(現・安芸高田市吉田)にあるが[1]、角川は東洋工業(マツダ)近くの向洋(現・広島市南区)で生まれ[1]、近くの船越で育った[1]。角川家は広島では珍しくない移民の家系で戦前、祖父母がブラジルへ移民し、コーヒー農園で働いた[1]。父はブラジリア生まれ[1][3]。祖母は107歳まで生きた[1]。
父と一緒に旧広島市民球場に何度も通ったカープファン[3]。高校時代は高校野球の名門・広陵高校の軟式野球部に所属(二年まで在籍)[1][3][4][5]。レギュラーではなかったが、在籍時に硬式野球部は春夏3度甲子園大会に出場、高1の春(新高2)の第42回選抜高等学校野球大会では、角川の1年先輩にあたる佐伯和司(後に広島東洋カープなどで活躍)を擁して、優勝した箕島高校に準決勝で敗れるなど健闘を果たしている。後年の芸能人野球大会では幾度か出場し、経験者らしいプレーを見せた。高岡健二、前川清と並ぶ、1970年代の野球(草野球)が上手い芸能人三羽烏とも言われた[4]。角川は前川のように自分のチームを持たず、「客分」として作曲家チームや有線放送チームに参加するため[4]、相手チームから「角川が来るならやらない」と嫌がれるほどだった[4]。
実家は朝日新聞の新聞販売店を経営したため[3]、中高と新聞配達を続けた[1][3][5]。高校卒業後は、広島の洋品店やボウリング場で働き[5][3][6]、クラブ歌手として、広島の歓楽街流川や博多のクラブで歌った[5]。中洲で歌っているところをスカウトされ上京し芸映に所属。同郷の西城秀樹は、西城の兄と角川がワル友達で仲がよく[7]、角川も西城もスカウトしたのは1964年に「太陽の彼方に」をヒットさせた元歌手・藤本好一[7][8][9]。
1976年4月、『涙ぐらし』でRVC・RCAレコードより歌手デビュー[5]。同年、第18回日本レコード大賞新人賞、第9回日本有線大賞新人賞をはじめ、新人賞を総なめにした。同期には ピンク・レディー・新沼謙治・芦川よしみ・内藤やす子ら[5]。翌々年1978年には『許してください』でNHK紅白歌合戦に初出場を果たし[5]、合計3回出場。
声帯模写を得意とし、ものまね番組の創成期にもよく出演した[5]。レパートリーは美空ひばり・三波春夫・淡谷のり子・森進一・五木ひろし・前川清・小林旭ほか。自宅の家電製品は当時のものまね番組の賞品ばかりであったという。
2012年に角川事務所株式会社を設立し、デビュー以来所属していた芸映から独立。
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エピソード
- 1980年、女優の津山登志子と結婚。1996年に離婚。
- 1999年、演歌歌手の沢田綾(さわだ あや 1975年3月12日 - )と再婚。
- NTV系連続ドラマ『あんちゃん』(1982年 - 1983年放映)の挿入歌「宇佐木温泉音頭」(「うさぎ温泉音頭」。松本隆作詞・大瀧詠一作曲・萩原哲晶編曲)を歌唱。放映当時はレコード化されなかったが、1995年に発売された『大瀧詠一 SONGBOOK II』などのCDに収録されている。
- 1987年発売のシングル曲「おまもり」は、「時の流れに身をまかせ」(1986年)など、一連のテレサ・テンのヒット曲で知られる荒木とよひさ・三木たかしのコンビのペンによる楽曲。
- 滋賀県旧浅井町の浅井音頭で唄を歌っていた。地元ではメロディー、歌唱力ともに大変に評判がよかった。
- 和田アキ子を囲む「アッコファミリー」のせんだみつおと共に、初代の宴会部長だった[10]。
ディスコグラフィ
シングル
デュエット・シングル
アルバム
- LP
- CD
ベスト・アルバム
参加作品
映像作品
ミュージック・ビデオ
タイアップ曲
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NHK紅白歌合戦出場歴
出演
テレビ
ラジオ
- 大沢悠里のゆうゆうワイド(2014年〜2016年3月18日)[12] - 主に二カ月に1回、金曜日に放送される「ゆうゆう替え歌教室」で、『新人歌手』角川博として替え歌を担当[注釈 2]。
CM
脚注
関連項目
外部リンク
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