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平尾昌晃

日本の作曲家、歌手 ウィキペディアから

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平尾 昌晃(ひらお まさあき、1937年昭和12年〉12月24日 - 2017年平成29年〉7月21日[1])は、日本作曲家作詞家歌手社団法人日本作曲家協会・常務理事[2]社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)理事[3]などを歴任した。

概要 平尾 昌晃, 出生名 ...
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来歴・人物

要約
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生い立ち

化粧品業を営んだ平尾聚泉の孫。クラシックの作曲家で国立音楽大学教授を務めた平尾貴四男は伯父。

東京市牛込(現:東京都新宿区)「生まれ」であるが、終戦後、神奈川県湘南エリアに移住し、藤沢市にある湘南学園で小中学時代を送る[4]。出生名は平尾勇。幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、最終的には本名の通り平尾昌晃を芸名としていた。

小学3年生のとき、自宅に来ていた将校から貰ったジャズのLPを聴き衝撃を覚える[5]。11歳のとき、のど自慢大会に出場し「奥様お手をどうぞ」を英語で歌い、鐘3つの合格点をもらう[6]

藤沢市に住み、ジャズ教室に通い、朝丘雪路水谷良重ペギー葉山らと知り合う。慶應義塾高等学校中退後、ウエスタンの人気バンド、チャック・ワゴン・ボーイズに入る[7]。しばらくして、チャック・ワゴン・ボーイズボーカル小坂一也が脱退したため、オールスターズ・ワゴンとなる。

ソロ・デビュー

1957年、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロ渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演する[8]。自身としても、翌1958年1月、キングレコードより「リトル・ダーリン」でソロ・デビューする[8]。同曲の売上は芳しくなかったが、続いて同年3月に発表した「監獄ロック」が10万枚を売り上げるヒットとなる[9]。その後、ミッキー・カーチス山下敬二郎(後にこの2人は渡辺プロに所属する)と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」などで爆発的な大人気を博した[10]。1958年には、キングレコードからオリジナルナンバーである「星は何でも知っている」1960年4月には「ミヨチャン」(ミヨちゃん)を発表し、2曲共に100万枚を売り上げる大ヒットとなった[11]。売上に関しては、「星は何でも知っている」は50万枚[12]、「ミヨちゃん」は40万枚[13] とする文献もある。

「ミヨチャン」の元歌は、戦前から中学生の間で流行していた作曲者不詳の歌で、平尾は高校生の頃に覚えたという。それを基に現代(1960年当時)向きの歌詞をつけてリメイクしたのが平尾の「ミヨチャン」である[14]

ポール・アンカが作詞・作曲した「好きなんだ! (I Love You)」は、日本での売上は10万枚程度に留まったが、ハワイでは地元ラジオ局KPOI英語版が流したことをきっかけにリクエスト・ランキングで1位を記録する大ヒットとなった[15]。1959年12月、ハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」では、日本代表として歌唱した[15]

1965年2月20日拳銃不法所持で逮捕される[16]。平尾が独自にハワイから持ち帰り、帰国後「日頃、興行でお世話になっているから」と[16]名古屋東京暴力団組長に拳銃をプレゼントした事件が発覚した[16]。平尾は22日間拘留され[16]、釈放後「軽率だった」との反省文が雑誌に掲載された[16]

ロカビリーブームが去った1965年頃、北海道からじわじわ火がつき始めた「おもいで」で再ブレイクする[17]。「おもいで」は、渡辺プロの新人歌手だった布施明1966年に再レコーディングし、これもヒットとなった[18]。続けて、作曲家として「霧の摩周湖」「」、じゅん&ネネ「愛するってこわい」[19][20]梓みちよに提供した「渚のセニョリーナ」などがヒット。「霧の摩周湖」、「渚のセニョリーナ」では、第9回日本レコード大賞作曲賞を受賞した。

その後も作曲家として非凡な才能を発揮していたが、1968年12月3日[21]結核を患い健康保険岡谷塩嶺病院への長期間入院による療養を余儀なくされ、翌1969年5月と6月に2度にわたる大手術を経て、肋骨を6本取り除く。1969年11月30日に退院[21]。平尾自身は、この療養期間が作曲家としての活動の原点であることを事あるごとに語っている[22]

1970年代

1970年代に入ると、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を、五木ひろし小柳ルミ子アグネス・チャンらに提供している。作詞家山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている。

1974年、平尾昌晃音楽学校(現:平尾昌晃ミュージックスクール、HMS)を創立する[23]。東京本校の他、札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島にも地方校があり、デビューのバックアップもする。同校出身者は狩人畑中葉子川島なお美石野真子松田聖子川崎麻世大沢逸美森口博子芳本美代子笹峰愛倖田來未後藤真希西田あいなど。歌手としては、生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、「カナダからの手紙」「ヨーロッパでさよなら」などのヒットを出した。また、彼が日本でのデビューのきっかけを作ったアグネス・チャンとも、「香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)」でデュオを組んだ。

1970年代のNHK総合の人気番組『レッツゴーヤング』の司会などにも携わる一方、『平尾昌晃の部屋』など、ラジオ番組のパーソナリティも務めた。その他、人気テレビ番組『熱中時代』での「僕の先生はフィーバー」、「やさしさ紙芝居」、『熱中時代-刑事編』の「カリフォルニア・コネクション」の他、ABCテレビ朝日系時代劇の『必殺シリーズ』、アニメ『銀河鉄道999』などの音楽を手がける。

1980年代

また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手がけており、こちらは晩年まで長きにわたって関係が続いた[24]

音楽活動のみならず、『ものまねバトル』(日本テレビ系)の審査員、チャリティゴルフの企画など、幅広く活躍した。俳優としても、『二階の他人』などに出演している。

競走馬オーナーとしては中央競馬で3勝したスーパーミヨチャンなどを所有した[25]。また、ジャパンカップ優勝のローズキングダムの一口馬主でもあった。オートレースのファンとしても有名で、川口オートレース場には年間ボックスシートを持っているほどだった。作曲者としても川口オートのテーマソングとなる『ぶっちぎりの青春』を提供した。

2000年代

2001年モンブラン国際文化賞受賞。

2002年特定非営利活動法人ラブ&ハーモニー基金を設立、音楽を通じた福祉活動を展開する。

2003年紫綬褒章受章。

2004年に三男の平尾勇気歌手デビューを果たす。

2005年、歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて、優秀な生徒をCDデビューさせている。

2006年、大晦日の『第57回NHK紅白歌合戦』(NHK総合ラジオ第1)では同年3月に逝去した宮川泰の後を受け「蛍の光」の指揮者に就任し、2016年第67回まで11年間務めた。ただし、宮川やその前任の藤山一郎前田璣などと比較するべくもなく本格的に勉強した指揮法ではなく、いわば名誉職的な役割であることを本人も認めている。

晩年・闘病・死去

肺結核で片肺を切除して以来、肺疾患が慢性化。たびたび体調不調に悩まされた。

2014年末には原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態となったが、この時は奇跡的に持ち直している[26]

2015年に肺がんであることが判明。体力面を考慮して手術を回避。以降は呼吸補助器を携行しながら、公の場にも積極的に顔を出していた。その後2017年5月「息苦しい」と訴え約1か月にわたって入院。一時は回復したものの、同年7月13日に「蒸し暑く体調が悪い」と訴え、病院で検査の結果「肺炎の疑い」との診断で入院。だがこの時も食欲は旺盛で、病室でテレビを楽しんでいたという。

しかし7月21日深夜に容体が急変。病院にかけつけた夫人や数人の親族に看取られ、同日23時40分に、肺炎のため東京都内の病院で急逝した[1]。79歳没(享年81)。訃報後の7月23日、2016年に再々婚していたことが明らかとなった[27]。平尾の葬儀は親族らによる密葬の形で7月30日に執り行われたため、10月30日に東京・青山葬儀所にて渡邊美佐渡辺プロダクショングループ代表)を葬儀委員長とし、故人と縁のあった布施明、原辰徳青木功らを発起人とし『故 平尾昌晃 葬儀・告別式』と題して公のお別れの会が行われ、原が弔辞を読み、布施と五木ひろしが「霧の摩周湖」と「よこはま・たそがれ」を霊前に捧げるべく熱唱し、葬儀に参列した歌手らにより小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を合唱するなどして故人を偲んだ[28]

没後

没後に第59回日本レコード大賞特別功労賞が贈られた[29]

没後三回忌を迎えた2019年7月、平尾の遺骨が谷中霊園に在る平尾家先祖代々の墓所に納められた[30]

レタス巻き

宮崎県の名物料理にのり巻きの一種レタス巻きがあるが、この誕生には平尾と常連として訪れていた宮崎市の一平寿しの店主との友情が誕生の切っ掛けになっている。

レタス巻きの誕生1966年(昭和41年)で、当時平尾は野菜嫌いで医者から「野菜を食べなさい」と言われていた。それを聞いた常連だった一平寿しの店主が具材にレタスを用いたのり巻きを考案。尚、具材はレタス以外に海老を使う。また、マヨネーズを用いた。のり巻きにマヨネーズを使うのは当時画期的だった。その後一平寿しはレタス巻き発祥の寿司屋となる。

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作曲家としての提供曲

要約
視点

サウンドトラック

あ行

か行

さ行

た行

  • 田川裕之
    • 「一恋橋〜いちれんばし〜」(平尾プロデュース作品)
  • 千葉まなみ
    • 「想春賦」
    • 「娘ざかり」
    • 「ときめきの季節」
    • 「青い嵐」
  • 鶴岡雅義と東京ロマンチカ
    • 「追憶」「あなたを愛した頃」「別れてきました」「銀座の女(ひと)」
  • ザ・ドリフターズ
    • 「ミヨちゃん」(平尾が初めて作詞作曲歌唱してヒットさせたナンバーのカバー。渥美清も歌っている)

な行

は行

ま行

や行以降

その他

など多数。

また、高等学校の校歌や企業の社歌を作曲したこともある。

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歌手としての作品

要約
視点

シングル

平尾昌章とオールスターズワゴン名義

キングレコード

  • リトル・ダーリン / バター・フィンガース(1958年1月、EA-25)
  • かんごくロック / ロンサム・カウボーイ(1958年3月、EA-32)
  • ダイアナ(1958年6月、EA-36)ポール・アンカのカバー。山下敬二郎と競作になった。
    • c/w バルコニーにすわって
  • ルシヤ / 五木の子守唄ロック(1958年6月、EA-43)
  • クレイジー・ラヴ (1958年7月、EA-48) ジーン・ヴィンセントのカバー
    • c/w ジザベル
  • 星はなんでも知っている / ロック夕やけ小やけ(1958年7月、EB-108)
  • 心のうずくとき / ロック・会津磐梯山(1958年9月、EA-54)
  • ジングル・ベル / 別れのワルツ(1958年10月、EA-59)
  • 星の降る夜は / ロック聖者が街へやって来る(1958年11月、EB-124)
  • 好きなんだ! (I Love You)(1958年12月、EA-71)- 作詞・作曲:ポール・アンカ
  • 単車で飛ばそう / 木枯らし吹けば(1958年12月、EB-136)
  • 東京ロマンスウエイ / ロック・枯葉(1959年2月、EB-148)
  • ロック・おてもやん / コメ・プリマ(1959年4月、EB-163)
  • 浮かれ祭り / 黒い地帯(1959年5月、EB-171)
  • カン・カンからすの勘三郎 / ぐっとほれたぜ(1959年7月、EB-170)
  • 男だけの世界 / 一人にしておくれ(1959年8月、EB-179)
  • 事件記者(1959年11月、EB-228。B面は三船浩「110番」)
  • 北風の十字路/ 流れ星だぜ(1959年12月、EB-260)
  • 恋の片道切符(1960年2月、EB-310)- ニール・セダカのカバー
  • ミヨチャン / あの日から(1960年4月、EB-325)
  • 南の島は恋の島 / 島原地方の子守歌(1960年5月、EB-339)
  • ランニング・ベア英語版(悲しきインディアン)(1960年5月、EA-109)- ジョニー・プレストン英語版のカバー
    • c/w レッド・リヴァー・ロック - ジョニーとハリケーンズ英語版のカバー
  • マウイ・ガール / アロハ・オエ(1960年7月、IS-2002)
  • 嘆きの道化師 / ドミノ(1960年8月、EB-417)
  • あの娘16、おさげ髪 / 木曽の仲のりさん(1960年10月、EB-383)
  • 都の灯りにあこがれて / リカちゃん(1960年10月、EB-419)
  • ワゴン・トレイン(幌馬車隊)(1960年10月、EB-7025)テレビ西部劇幌馬車隊英語版』主題歌のカバー
    • c/w アイ・ラヴ・パリス英語版 - ミュージカル『CAN-CAN』挿入歌のカバー
  • 嫌じゃありませんか / 水車がガッタンコ(1961年、EB-464)- 平尾昌章名義
  • ギラギラロック(1961年4月、EB-7033)
  • おもいで / しあわせは音もなく(1961年5月、EB-496)
  • いとしのルチア / 道中伊勢音頭(1961年6月、EB-7036)
  • 夢の恋人 / 星の降るよな晩だった(1961年7月、EB-519)- 平尾昌章名義
  • ムームー・ソング / 夏の日の想い出(1961年7月、EB-552)
  • 涙のムーディー・リヴァー英語版(1961年8月、EB-7043)- チェイス・ウェブスターパット・ブーンらが歌った曲のカバー
  • 思い出の歌(1961年10月、EB-569)- 平尾昌章名義
    • c/wは、若原一郎の「雨の日だって楽しいさ」
  • ジャニー・ギター(1961年12月、SEB-49)- ペギー・リーのカバー
  • ジングル・ベル / 別れのワルツ (Auld Lang Sayne)(1961年、EA-59)- 平尾昌章名義

ビクターレコード

  • 愛してほしいの/ 恋の聴診器(1962年5月、PV-4)
  • 夏の夜の恋 / 何も言えずに(1962年、VS-726)
  • 哀愁のバイパス道路(VS-861)
    • c/wはフランク永井の「霧子のタンゴ」
  • 甘い暴力 / チャンスを逃すな(1963年5月、PB-35)
  • さあ!オリンピックだ(1964年、VA-1194)
  • スピード野郎(1964年)- ミュージカル「ラップ3分2秒8」主題歌
    • B面は亀井信夫とスペイスメンの「祈らずにいられない」

ローヤルレコード

  • あいつの涙 / お月さま(1966年4月、RQ-617)

平尾昌晃名義

  • 破れた恋にも虹がある / ひとりごと(1967年、キングレコード、BS-640)
  • 星は何でも知っている / 砂に書いたラブレター(1976年、L-26A)
  • 上陸!ロックン・ロール・タイフーン / 聖者の行進(1977年6月、CBSソニー、08SH-158)
    A面は1950年代から1960年代のロックンロールのヒット曲のメドレー。ミッキー・カーチス山下敬二郎と共演
  • カナダからの手紙 / 揺れる二人(1978年1月10日、ビクターレコード、SV-6340)- 畑中葉子とデュエット
  • エーゲ海の旅 / 恋ごころ(1978年4月25日、ビクターレコード)- 畑中葉子とデュエット
  • サンフランシスコ行き / 赤いレインコート(1978年、ビクターレコード)- 畑中葉子とデュエット
  • ヨーロッパでさよなら / 東京ラブ・ストーリー(1978年、ビクターレコード、SV-6496)- 畑中葉子とデュエット
  • 手錠をかけろ / 青春のみちしるべ(ビクターレコード、SV-6655)
  • 遠い町 / シンガーソングライター(1979年)- NHK総合『レッツゴーヤング』エンディングテーマ曲
  • 香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)/ 夕焼け(2002年7月21日)- アグネス・チャンとデュエット
  • 星空デート / 恋ふたたび(2012年4月4日)- 木の実ナナとデュエット

アルバム

さらに見る 発売日, 規格 ...

ベストアルバム

その他

  • 必殺仕事人 新録劇伴集((必殺仕事人2007〜)(2016年11月30日、YZHM-30101)
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ラジオ出演

テレビ出演

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映画出演

  • 嵐を呼ぶ男(1957年)
  • 愛河(1958年)
  • 星は何でも知っている(1958年)
  • 赤いランプの終列車(1958年)
  • 単車で飛ばそう(1959年)
  • 東京ロマンス・ウェイ(1959年)
  • 待っていた花嫁(1959年)
  • 可愛い花(1959年)
  • 女は抵抗する(1960年)
  • 恋の片道切符(1960年)
  • 不良少女(1960年)
  • 俺の故郷は大西部(1960年)
  • 夕陽に赤い俺の顔(1961年)
  • 引っ越しやつれ(1961年)
  • 幽霊五十三次(1961年)
  • 二階の他人(1961年)
  • 若者たちの夜と昼(1962年)
  • 大暴れ五十三次(1963年)
  • 七人の刑事(1963年)
  • 嵐を呼ぶ十八人(1963年)
  • 東京オリンピック音頭 恋愛特ダネ合戦(1963年)
  • 若い港(1964年)
  • やればやるぜ全員集合(1968年)

NHK紅白歌合戦出場歴

(NHK総合・ラジオ第1)

さらに見る 年度/放送回, 曲目 ...

著書

脚注

関連項目

外部リンク

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