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小説家 (1898-1993) ウィキペディアから
井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1993年〈平成5年〉7月10日)は、日本の小説家。本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。広島県安那郡加茂村(現福山市)出身[1]。筆名は釣り好きだったことによる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。福山市名誉市民、広島県名誉県民、名誉都民。
井伏 鱒二 (いぶせ ますじ) | |
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1952年の井伏 鱒二 | |
誕生 |
井伏 滿壽二(いぶし ますじ) 1898年2月15日 日本・広島県安那郡加茂村 (現福山市) |
死没 |
1993年7月10日(95歳没) 日本・東京都杉並区 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 早稲田大学仏文科中退 |
活動期間 | 1923年 - 1993年 |
ジャンル | 小説・随筆 |
文学活動 | 新興芸術派 |
代表作 |
『山椒魚』(1929年) 『屋根の上のサワン』(1929年) 『ジョン万次郎漂流記』(1937年) 『さざなみ軍記』(1938年) 『多甚古村』(1939年) 『本日休診』(1950年) 『駅前旅館』(1957年) 『黒い雨』(1966年) 『荻窪風土記』(1982年) |
主な受賞歴 |
直木三十五賞(1938年) 読売文学賞(1950年・1972年) 日本芸術院賞(1956年) 文化勲章(1966年) 野間文芸賞(1966年) |
デビュー作 | 『幽閉』(1923年) |
親族 |
郁太(父) ミヤ(母) 民左衛門(祖父) 文夫(兄) 泉(姉) 圭三(弟) 節代(妻) |
ウィキポータル 文学 |
1898年、広島県安那郡加茂村粟根に父・井伏郁太、母・ミヤの次男として生まれた。井伏家は室町時代の1442年(嘉吉2年)まで遡れる旧家で、「中ノ士居(土地の言葉でナカンデエ)」の屋号をもつ代々の地主である[2]。5歳のときに父を亡くし、特に祖父にかわいがられて育つ。
1905年、加茂小学校入学。この年の夏に祖父と訪れた鞆ノ津(鞆の浦)で初めて海を見て、一尺くらいある黒鯛を釣り上げた[3]。
1912年、旧制広島県立福山中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)に進学した。同校の庭には池があり、2匹の山椒魚が飼われていて[4]、これがのちに処女作として発表され、世に知られることとなる「山椒魚」に結びついた。作文は得意だったが成績はあまり振るわず、中学3年のころから画家を志し、卒業すると3か月間奈良・京都を写生旅行。そのとき泊まった宿の主人が偶然橋本関雪の知り合いと聞き、スケッチを託して橋本関雪に入門を申し込んだが断られ、やむなく帰郷する。
後に、同人誌に投稿などをしていた文学好きの兄からたびたび勧められていたこともあり、井伏は文学に転向することを決意、1917年9月、早稲田大学予科に入学、1919年4月、文学部仏文学科に進学する[5]。そこで同じ学科の青木南八と親交を深める一方、文壇で名を成していた岩野泡鳴や谷崎精二らのもとを積極的に訪ねるようになる。しかし1921年、三回生の時、井伏は担当の片上伸教授と「衝突[注 1]」し、やむなく休学し帰郷、母と兄の配慮により中学時代の恩師を人伝に仲介を受け、御調郡(旧・因島市、現・尾道市)因島三庄町千守の土井医院[注 2]2階へ逗留することとなった[6][7][8][9]。
約半年後に帰京、復学の申請をするが、同教授が反対したためかなわず、やむなく中退となった。さらにこの年、無二の親友だった青木南八が自殺するに及んで、井伏は日本美術学校も中退してしまう。
1923年、同人誌『世紀』に参加し、「幽閉」を発表。後に加筆して『山椒魚』と改題[10]。翌年、聚芳社に入社するが、退社と再入社を繰り返した後、佐藤春夫に師事するようになる。
1924年、親友を頼って山口県柳井市に滞在。後になって、当時お露という名前の柳井高等女学校の生徒への切ない恋を告白した書簡が見つかっている[11]。
1927年、「歪なる図案」を『不同調』誌に発表、初めて小説で原稿料を得たが、なかなか芽が出ず、文藝春秋の女性誌『婦人サロン』に、同人誌仲間の中村正常(中村メイコの父)と組んで、「ペソコ」と「ユマ吉」というモガとモボを主人公にしたナンセンス読み物を書き始める。同年10月、遠縁の娘、秋元節代(当時15歳)と結婚する。この時期より荻窪に在住、やがて阿佐ヶ谷文士村が出来ていき中心人物となった。
1929年、梶井基次郎の「ある崖上の感情」の影響を受けた「朽助のいる谷間」を『創作月刊』誌に[12][13][14]、「幽閉」を改作した「山椒魚」を『文芸都市』誌に、「屋根の上のサワン」を『文学』に発表する。この後『山椒魚』は早稲田在学中にやっていた回覧雑誌「にはいり」に『山椒魚の嘆き』として載ったとされる。さらに1940年(昭和15年)には「セイガク二年生」にも連載された。井伏は60数年にわたってこの作品『山椒魚』を改稿し続けた[15]。
1930年、初の作品集『夜ふけと梅の花』を出版する。この年は小林秀雄らが出していた雑誌『作品』の同人となり、太宰治とはじめて会ったりしている。
1931年4月29日、井伏は林芙美子と瀬戸内の因島に渡り、三ノ庄(みつのしょう)の土井浦二宅を訪れて、同家の跡取り息子の展墓を果たす。かつて早稲田を休学して憂悶の日々を送った折に、当地で止宿先を提供してくれた土井医院の長男春二がこの年2月、日本医科大学在学中に病没したためである[注 3]。その島を離れる折に、船上で林芙美子の人情味溢れる感情の機微に触れた[注 4]ことが、後に彼の有名な于武陵「勧酒」の訳出「サヨナラダケガ人生ダ」を生み出す端緒となる[8][16]。
1938年、『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞受賞、『文学界』誌の同人となる。
昭和初年から山梨県を頻繁に訪問した。山梨では多くの地元文人と交流し、趣味の川釣りなどを行っている。山梨を舞台にした作品も多い。1939年、太宰治と甲府市水門町(甲府市朝日)に居住する地質学者・石原初太郎の娘である美知子との結婚を仲介している。
1941年、陸軍に徴用され、開戦を知ったのは南シナ海上を航行する輸送船の中だった。その後日本軍が占領したシンガポール(昭南)に駐在、現地で日本語新聞『昭南新聞』の編集に携わった。この経験がその後の作品に大きな影響を与えている。
1944年7月には、甲府市甲運村(甲府市和戸町)の岩月家に疎開する。岩月家は双英書房の創業者である岩月英男の実家であり、岩月は井伏門下で、太宰治の著作などを刊行している。井伏は翌1945年7月6日から7日の甲府空襲では被災している[注 5]。井伏はその後、広島県福山の生家に再疎開しているが、戦後も甲州(山梨県)訪問は頻繁に行っており、俳人の飯田龍太らと交流した。
『別冊文藝春秋』1949年8月-1950年5月に『本日休診』を連載、1950年6月刊。1940年代後半の一時期、新日本文学会に加入していたが、ほどなく退会した[17]。
『群像』1954年4月-1955年12月に『漂民宇三郎』を連載、1956年2月刊行。
1965年1月-1966年9月、『新潮』誌に『黒い雨』(連載当初は『姪の結婚』)を連載、1966年10月刊行した。この作品で1966年(昭和41年)、野間文芸賞を受賞する。同年に文化勲章を受章する[18]。
1970年11月『私の履歴書(半生記)』を『日本経済新聞』に連載する[19]。
1974年(昭和49年)末から翌1975年(昭和50年)2月まで岡山県邑久郡牛窓町(その後の瀬戸内市)に滞在し、6月「新潮」に「備前牛窓」を発表する[20]。
1982年、荻窪の古老:矢嶋又次の昔の荻窪の「記憶画」に触発されて執筆した『荻窪風土記』を新潮社より発刊する。
1992年、6月発行の『アサヒグラフ別冊 井伏鱒二の世界』(朝日新聞社)で最晩年の日々が紹介された。
1993年6月24日、東京衛生病院に緊急入院、7月10日に肺炎のため95歳で死去した[21]。戒名は照観院文寿日彗大居士。自宅近所でお別れの会が行われ多数の参列者が来た。墓碑は東京青山の持法寺にあり、高さ1.3メートルほどの墓石正面に「井伏家之墓」と刻まれている[22]。
生誕100年となる1997年(平成9年)、杉並区立郷土博物館にて平成9年度特別展「生誕百年記念特別展 井伏鱒二と『荻窪風土記』の世界」が開催された。会期は1998年(平成10年)2月1日から3月15日。井伏が生涯の大半を過ごした荻窪の地を舞台に、多くの文士との交流や井伏の趣味人、釣人としての姿などを書いた『荻窪風土記』を通して井伏文学を辿った展示が行われた[23]。
没後30年となる2023年、神奈川近代文学館にて特別展「没後30年 井伏鱒二展 アチラコチラデブンガクカタル」が開催された[24]。会期は9月30日から11月26日[25]。太宰治が鎮痛剤中毒で入院したときの病状を井伏から佐藤春夫に伝えた新発見の書簡が展示された[24][26]。
1995年に井伏文学を後世に伝えるため文学ファンたち約30人で発足した[32][33]。代表の小林忠司は、福山駅前にあった井伏の定宿「小林旅館」の元経営者で、井伏と親しかった[33]。会誌や会報の発行、文化講座や文学ツアーなどをおこなっている[32]。
井伏没後に、歌人の豊田清史は、代表作『黒い雨』が被爆者で豊田の知人である重松静馬の日記をほぼそのままの形で使ったものに過ぎないと主張した[34]。
豊田の主張について近代文学研究者の相馬正一は「読者に「黒い雨」がいかにも「重松日記」の盗作であるかのような印象を与えた」と述べ、豊田が「重松日記」の本文を改竄し、『黒い雨』の本文に近づけるという操作を行っていることを批判している[35]。
ただし、豊田自身が「盗作」という言葉を使ったことはない。なぜなら、重松が『黒い雨』に自身の日記を使用することを許諾していた以上「盗作」と主張するのが無理であることは、豊田もよくわかっていたからである。豊田は「「盗作だったのか」はまったく『週刊金曜日』が一方的につけた題名である」と説明している[36]。豊田の主張に依拠した作家の猪瀬直樹『ピカレスク 太宰治伝』(小学館、2000年、文春文庫、2007年)が『黒い雨』の価値を全否定したことで、この問題は広く知られるようになった。しかし、近年では豊田の主張には数々の虚偽が含まれていることが広く知られている[37]。また、重松静馬の日記は『重松日記』(筑摩書房 、2001年)として刊行されているので、『黒い雨』が重松の日記をほぼそのままの形で使ったものに過ぎないのかどうかは誰にでも確認できる[独自研究?]。
井伏鱒二の作品で外国語に翻訳されているのは次の通り[41][42]。
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