豊臣秀頼
日本の安土桃山~江戸時代の大名、太閤・豊臣秀吉の子 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:
トップの事実と統計を挙げていただけますか 豊臣秀頼?
この記事を 10 歳向けに要約してください
すべての質問を表示
「豊臣秀頼」のその他の用法については「豊臣秀頼 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、旧字体:豐臣 秀賴)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。
概要 凡例豊臣 秀頼, 時代 ...
豊臣秀頼像(養源院蔵) | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 文禄2年8月3日(1593年8月29日)[1][2][3] |
死没 | 慶長20年5月8日(1615年6月4日)[4](23歳没) |
改名 | 拾(幼名)→秀頼 |
戒名 | 帰寂山高陽寺殿秀山大居士 |
墓所 |
京都市東山区の養源院 京都市右京区の清凉寺 高野山の奥の院 鹿児島市谷山の墓所 |
官位 | 従三位・左近衛権中将、従二位・権中納言、権大納言、正二位、内大臣、右大臣 |
氏族 | 豊臣氏 |
父母 |
父:豊臣秀吉 母:淀殿(浅井長政の長女) 義父:徳川秀忠 |
兄弟 | 石松丸、鶴松、秀頼 |
妻 |
正室:千姫(徳川秀忠の娘)従兄弟 側室:和期の方(伊茶、渡辺五兵衛の娘)、小石の方(成田助直の娘) |
子 | 国松、天秀尼他 |
テンプレートを表示 |
閉じる
秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である[注釈 1]。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。
秀頼は父・秀吉の意思を継ぎ、秀吉の発願した高さ約19mもある方広寺大仏(京の大仏)及び、それを安置する大仏殿の再建を進めた。しかし、同寺院に納める梵鐘の鐘銘を巡り方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件[注釈 2])が発生し、徳川氏の江戸幕府と交戦することになった(大坂の陣)。この頃にはもはや徳川氏の優位が確立しており、世の趨勢を覆すには至らず、冬と夏の両陣を経て、大坂城が落城し秀頼は自刃。これにより豊臣氏(羽柴宗家)は滅亡した。
秀頼は生前に、戦乱で荒廃していた多数の寺社に寄進を行い、伽藍や社殿の再興を図った。彼の寄進で造立された建造物には、東寺金堂や北野天満宮社殿などがあるが、今日国宝や重要文化財に指定されているものが多く、秀頼の文化的事業に対して一定の評価が与えられている[7](後述の#秀頼の寺社造立を参照)。