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幕末から明治にかけての公卿、官僚 (1840–1919) ウィキペディアから
德大寺 實則(とくだいじ さねつね、天保10年12月6日〈1840年1月10日〉 - 1919年〈大正8年〉6月4日)は、日本の公卿、政治家。宮内卿、内大臣、明治天皇の侍従長等を務めた。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。新字体で徳大寺 実則と表記されることもある。
徳大寺 実則 とくだいじ さねつね | |
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生年月日 |
1840年1月10日 (天保10年12月6日) |
出生地 |
日本 山城国京都 (現・京都府京都市) |
没年月日 | 1919年6月4日(79歳没) |
死没地 |
日本 東京府 (現・東京都) |
前職 | 内廷職知事 |
称号 |
従一位 大勲位菊花章頸飾 公爵 |
配偶者 | 徳大寺年子(山内豊資の六女) |
子女 |
徳大寺公弘(長男) 高千穂宣麿(次男) |
親族 |
鷹司政煕(高祖父) 鷹司政通(曾祖父) 鷹司輔煕(祖父) 徳大寺公純(父) 西園寺公望(弟) 住友友純(弟) 末弘威麿(弟) 鷹司熙通(娘婿) 佐竹義生(娘婿) 松平頼孝(娘婿) 島津忠重(娘婿) 徳大寺実厚(孫) 鷹司信輔(孫) 鷹司信熙(孫) |
第2代 内大臣 | |
在任期間 | 1891年2月21日 - 1912年8月12日 |
第6代 侍従長 | |
在任期間 | 1884年3月21日 - 1912年8月13日 |
第2代 宮内卿 | |
在任期間 | 1871年11月29日 - 1884年3月21日 |
在任期間 | 1871年9月18日 - 1877年8月29日 |
選挙区 | 侯爵議員→公爵議員 |
在任期間 |
1890年2月 - 1911年4月20日 1911年4月21日 - 1919年6月4日 |
尊皇攘夷派の公卿として活躍し、1862年(文久2年)、国事御用掛、翌年議奏となったが、1863年(文久3年)に起こった八月十八日の政変に関与し謹慎となった。王政復古の後、1868年(慶応4年)1月に明治政府の参与・議定として内国事務総督を兼ね、2月には内国事務局督、1869年(明治2年)、内廷職知事、ついで大納言に至った。
1871年(明治3年)、宮内省に入り、侍従長・宮内卿と兼任に至った。1891年(明治24年)、内大臣兼侍従長となり、明治天皇の側近として天皇が崩御するまで補佐した。明治天皇の政治関与には強く反対し、元田永孚らが侍補制度を定めて天皇親政運動を行った折にはその阻止に動いた。また、自らの政治的関与も強く戒めて侍従長在任中は政界に転じた実弟の西園寺公望とは公の場所以外では会話しなかったと言われている。
重厚な滅多に口のきかない人物である。この人はいつも顔を伏せている。伏せたまま眼だけが気を配るようにあちこちと動く。歩く時はきわめて静かで猫のように足音さえもさせない。
(中略)この人が顔をあげて歩くのは邸内の庭を歩く時だけであった。一旦人中に出れば、自然に頭が下がって、眼だけをわずかに動かすのである。
恐らくこういう公爵の様子は、明治陛下の侍従長として長い間お勤めしている間に、陛下の行幸に御陪乗して、いつも陛下の御前に座り、黙って頭を伏せて、しかも四方に気を配っていなければならなかった生活からきたものであろう。それがすでにこの人の性格にまで根を下ろしていたのではあるまいか。
墓所は当初谷中霊園(どの区画にあったかは不明)にあったが、多磨霊園に改葬されている。
※1872年までの日付は旧暦
東山天皇の男系七世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
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