海津市
岐阜県の市 ウィキペディアから
岐阜県の市 ウィキペディアから
海津市(かいづし)は、岐阜県南西部にある市。西濃地域に含まれる。旧南濃町区域に山地があるが、旧海津町と旧平田町域はほぼ全域が海抜ゼロメートル地帯であり、輪中が数多く見られる。
西側の岐阜県・三重県境には南北に養老山地が連なる。濃尾平野の三大河川(木曽三川)である揖斐川・長良川・木曽川が合流する地点にあり、水害を防ぐための輪中がよく見られる。
31,766人令和6年5月1日現在
海津市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 海津市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 海津市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
海津市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
海津市の地名を参照
南濃町羽沢に貝塚(羽沢貝塚)があり、土器・石器・人骨・甕棺が出土していることから、遅くとも縄文晩期後半(約2500年前)には海津一帯に縄文人が定住していたと考えられる。なお、この時代の海津は海に面しており、貝塚からはヤマトシジミなどが見つかっている。
1606年(慶長11年)ごろ[1][2] - 標高が低いために高潮などによる水害に苦しんだ農民たちが、それまで下流側に堤防がない「尻無堤」に堤防を追加し、集落全体を囲う最初の輪中である高須輪中が完成した。その後周辺の集落もこれに習い、周辺地域には数十の輪中が形成された。木曽川や長良川の強力な水流が作りかけの堤防を流してしまうことも多く、川に人柱が捧げられることもあった。
1700年(元禄13年) - 尾張藩主徳川光友の二男松平義行が高須に封じられた時、行基創建の寺院跡といわれていた場所に、松平家の菩提寺として1705年(宝永2年)に再建されて行基寺と命名された。地元産の河戸石を用いた城郭造りで、濃尾平野を一望できる山腹にある。
木曽三川の全てが集中するという地理上の理由と、「堤を作るときは尾張藩の御囲堤(おかこいづつみ)より3尺(約91cm)低く堤防を作らなければならない」という幕府の命令により、江戸時代の海津市周辺は洪水が多発していた。これを改修するために薩摩藩士が動員され、そのうち33名が病死、平田靱負をはじめとする51名が引責、または、幕府への抗議のため自害した(宝暦治水)。治水神社は彼らを祭神とする。
宝暦治水は絶大な効果を挙げるように思われていたものの、完成した堤が川底への土砂の堆積を促したため実際には輪中地帯の洪水の回数はむしろ増加した。したがって明治期のお雇い外国人であるヨハネス・デ・レーケによる木曽三川分流工事が行われるまで、輪中地域はたびたびの洪水被害に苦しんだ。
高須藩から、徳川慶勝や松平容保をはじめ高須四兄弟を輩出した。彼らは後に、全員が主要な藩の跡目を継ぎ、旧幕府と新政府の両政府で中心的な役割を果たした。彼らは、それぞれ新政府側、旧幕府側に分かれたとはいえ兄弟間の関係は良く、1878年(明治11年)には4人揃って撮影された記念写真が現存している。
※ 2024年3月22日、「市長選挙と市議会議員選挙を同時選挙とするための議会解散についての意思確認投票」を実施(賛成12人、反対3人)[4] [5]。
自動車部品製造
菓子製造
南濃地区を通っている。市役所のある海津地区及びお千代保稲荷のある平田地区に鉄道は通っていない。海津地区および平田地区の最寄駅は東海道新幹線の岐阜羽島駅及び名鉄羽島線の新羽島駅。
東海環状自動車道に属する海津スマートインターチェンジ[6]が設置される予定である。名神高速道路の岐阜羽島インターチェンジまたは大垣インターチェンジを利用する。南部地区は東名阪自動車道の桑名東インターチェンジまたは弥富インターチェンジを利用する。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.