神護寺
京都市右京区にある仏教寺院 ウィキペディアから
京都市右京区にある仏教寺院 ウィキペディアから
神護寺(じんごじ)は、京都市右京区梅ヶ畑高雄町にある高野山真言宗の遺迹(ゆいせき)本山の寺院。山号は高雄山。本尊は薬師如来。開基は和気清麻呂である。
神護寺 | |
---|---|
金堂への石段 | |
所在地 | 京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町5 |
位置 | 北緯35度3分18.06秒 東経135度40分15.12秒 |
山号 | 高雄山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺格 | 遺迹本山 |
本尊 | 薬師如来(国宝) |
創建年 | 天長元年(824年) |
開基 | 和気清麻呂 |
正式名 | 高雄山 神護国祚真言寺 |
別称 | 高雄神護寺 |
札所等 |
西国薬師四十九霊場第44番 仏塔古寺十八尊第7番 神仏霊場巡拝の道第90番(京都第10番) |
文化財 |
木造五大虚空蔵菩薩坐像、絹本着色釈迦如来像、紫綾金銀泥両界曼荼羅図ほか(国宝) 大師堂、絹本著色真言八祖像8幅、木造日光菩薩・月光菩薩立像ほか(重要文化財) |
公式サイト | 弘法大師霊場 遺跡本山 高雄山神護寺ホームページ |
法人番号 | 1130005002242 |
京都市街の北西、愛宕山(924メートル)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、紅葉の名所として知られる。清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。神護寺は空海が東寺や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院である。
寺号は詳しくは「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称する。寺の根本史料である「神護寺略記」や国宝の「文覚上人四十五箇条起請文」などにももっぱら「神護寺」とあり、寺の入口の楼門に架かる板札にも「神護寺」とあることなどから、本項でも「神護寺」の表記を用いる。
神護寺は、いずれも和気氏の私寺であったと思われる「神願寺」と「高雄山寺」という2つの寺院が天長元年(824年)に事実上合併してできた寺である。2つの前身寺院のうち、神願寺は、和気清麻呂(733年 - 799年)により天応元年(781年)に建てられたとされる寺であるが、その所在地については河内国二上山説、山背国男山説など諸説あり、いずれも決め手を欠いている。また、山背国説の中には神願寺を石清水八幡宮の源流として位置づける説もあるが、これも現時点では可能性の範囲に留まる[1]。
和気清麻呂は奈良時代末期から平安時代初期の高級官僚で、歴代天皇の側近として平安京遷都などに力を発揮した。また、僧・道鏡の皇位継承問題にからんで流罪になったことでも知られている。称徳天皇の信任が厚かった僧・道鏡は「八幡大菩薩のお告げ」により皇位を継ぐ者とされていたが、称徳天皇は神意を再確認すべく、和気清麻呂を八幡大菩薩が鎮座する九州の宇佐八幡宮へ派遣した。宇佐から戻った清麻呂は「宇佐八幡は、臣下の者が皇位に就くことを望んでいない」と奏上した。これが道鏡の怒りにふれ、清麻呂と姉の和気広虫(法均尼)は神護景雲3年(769年)それぞれ大隅国と備後国へ流罪となった。道鏡が実際に皇位を望んでいたのかどうか事件の真相には不明な部分もあるが、翌宝亀元年(770年)には、称徳天皇が崩御し、天皇の信望厚かった道鏡は左遷され、入れ代わるように清麻呂と広虫は許されて都に戻ってきた[2]。清麻呂が和気氏の私寺である神願寺の建立を願い出たのはそれから10年後の宝亀11年(780年)ともいい、少し後の延暦年間(782年 - 806年)ともいわれる。神願寺という寺号は宇佐八幡の神意に基づいて建てた寺という意味である。延暦12年(793年)には「神願寺に能登国の墾田五十町が寄進された」旨の記録(「類聚国史」所収)があり、この年が神願寺建立時期の下限とされている。
もう1つの前身寺院である高雄山寺(または高雄寺)は、現在の神護寺の地に古くから存在した寺院である。和気清麻呂の墓所が今の神護寺境内にあるところから、ここも和気氏ゆかりの寺院であることは確かだが、創立の時期や事情については明確でない。清麻呂が神願寺を建立したのとほぼ同じ時期に建立されたとされる。伝承では、洛北の鷹峯(京都市北区鷹峯)に鎮座していた愛宕権現を愛宕山に移座した際に、他のいくつかの山岳寺院とともに建立されたという。高雄山寺の歴史上の初見は延暦21年(802年)である。この年、和気氏の当主であった和気弘世(清麻呂の長男)は伯母に当たる和気広虫(法均尼)の三周忌を営むため、最澄を高雄山寺に招請し、最澄はここで法華会(ほっけえ、法華経の講説)を行った[2]。弘仁3年(812年)には空海が高雄山寺に住し、ここで灌頂(密教の重要な儀式)を行った。この時、灌頂を受けた者の氏名を書き付けた空海自筆の名簿(灌頂歴名)が現存し国宝に指定されているが[2]、そこにも「高雄山寺」の寺号が見える。
天長元年(824年)の太政官符(「類聚国史」「類聚三代格」など所載)によれば、この年、神願寺と高雄山寺の寺地を「交換」し、寺号を「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」とし、寺は定額寺(官が保護を与える一定数の私寺のこと)に列せられた[2]。寺地の交換が行われたのは、神願寺の所在する土地に「汚穢」(けがれ)があり、仏法の道場としてふさわしくなかったからとのことである。ただし、最澄・空海の名が高名になるにつれて、和気氏の中でも両名が滞在した高雄山寺を改めて氏寺として位置づけようとした際に、既に氏寺と位置づけられていた神願寺の存在が障害になったために、「汚穢」を口実とした寺地の交換という形で氏寺の差し替えを行ったとする見方もある[1]。「神護国祚真言寺」とは、「八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺」という意味で、この寺が密教寺院であることを明確に示している。
神護寺は空海の後、弟子の実慧や真済が別当(住職)となって護持されたが、正暦5年(994年)と久安5年(1149年)に火災で焼失するなどしたため、平安時代末期には衰退していた。
そこに現れたのが『平家物語』などで知られる武士出身の僧・文覚であった。彼は仁安3年(1168年)、神護寺に参詣するが、八幡大菩薩の神意によって創建され、弘法大師空海ゆかりの地でもあるこの寺が荒れ果てていることを嘆き再興の勧進を始めると、薬師堂、空海の住坊跡である納凉殿、不動堂などを再建した[2]。
しかし、文覚は復興をより進めようとして承安3年(1173年)に後白河法皇に荘園の寄進を強要し、返って法皇を激怒させてしまい、伊豆国に流されることとなった。その伊豆国で文覚は流人の身であった源頼朝に平氏への挙兵を迫ったという。文覚は、高倉天皇の中宮・徳子の皇子(後の安徳天皇)出産にともなう恩赦によって治承2年(1178年)に許されるが、配流の期間中は再建事業は事実上中断される[2]。
寿永元年(1182年)11月21日に文覚は蓮華王院に滞在中の後白河法皇に再び直訴を試みる。今回は法皇は訴えを聞き入れて荘園の寄進を行い、更に源頼朝の援助を受けて再建事業が再開される[2]。文覚は神護寺再建事業の傍ら、頼朝と法皇の連絡役を務めるなどの政治的活動を見せている。文治6年(1190年)2月には法皇の神護寺行幸が実現された。ところが、余りにも政治に関与しすぎた文覚は源頼朝の死の直後に発生した三左衛門事件に関与したとして後鳥羽上皇や源通親によって佐渡国に流された[2]。通親の死後の建仁2年(1202年)には許されて京に戻るが、翌建仁3年(1203年)[3]もしくは元久2年(1205年)[2]には今度は対馬国(隠岐国とする説もある)に流され、配流先で生涯を終えることになる。後鳥羽上皇は神護寺を延杲に与え、神護寺の所領を没収して女房や近臣達に全て分け与えてしまったとされている[4]。
承久3年(1221年)、承久の乱によって後鳥羽上皇が配流され、兄の守貞親王が非在位のまま治天の君となって後高倉院として院政を開始する。後高倉院は文覚と繋がりが深かったらしく、乱の直後に弟子の上覚(上覚房行慈)に没収された神護寺領を与えると、神護寺再興が命じられる。
嘉禄元年(1225年)に明恵を導師として伝法会が修された[2]。翌嘉禄2年(1226年)に再興事業は完遂され、3月には亡くなっていた後高倉院の妻であった北白河院を招いて「高雄惣供養」と呼ばれる大法要が行われた。その年の10月に上覚が亡くなっている。ただし、この間も必ずしも円滑だったわけではなく、北白河院は甥である宗全(持明院基宗の子)を神護寺の別当に据えて上覚から実権を剥奪し、宗教的な基盤の乏しい後高倉院の皇統のための御願寺にしようと図った。更に宗全は藤原隆忠の子聖基をその後継者に指名しようとした。上覚はこの動きに激しく反発したが、後高倉院亡き後は北白河院が最大の支援者であったことやそして上覚自身の寿命によって、宗全に実権を奪われることになった。しかし、御願寺化の構想は北白河院の実子で上覚の理解者であった道深法親王の反対や後高倉院の皇統そのものの断絶によって失敗に終わっている[4]。なお、鎌倉時代に華厳宗を復興し、高山寺を中興した僧・明恵は上覚の甥で、やはり神護寺に住したことがあった。
神護寺は鎌倉時代末期に後宇多天皇が空海ゆかりの寺院であることを理由に保護を与え、その子である後醍醐天皇からも重んじられた[4]。
その後、天文年間(1532年 - 1555年)に兵火に掛かって全焼したが[2]、元和元年(1615年)に讃岐国の屋島寺から龍厳が入寺すると、龍厳に帰依する京都所司代板倉勝重が奉行となって[2]元和9年(1623年)に金堂(現・毘沙門堂)を始めとして再興が行われた。江戸時代中期には堂宇7、支院9、僧坊15を数えるまでに再興されている[2]。
しかし、明治時代になると廃仏毀釈によって9つの支院と15の坊は破壊され、別院2ヶ寺と末寺の全てが他寺に移され、衰微した[2]。
1874年(明治7年)には和気清麻呂を祀っていた護法善神社が護王神社と改称され別格官幣社に列せられ、1886年(明治19年)に現在地である上京区桜鶴円町に移されている[5]。
周山街道の「山城高雄」バス停から清滝川を渡り、徒歩約20分、長い石段を上った先に神護寺の楼門が西を正面として建つ。楼門を入ると山の中腹を平らに整地した境内が広がり、右手に書院、和気公霊廟、鐘楼、明王堂が建ち、その先には五大堂と毘沙門堂が南向きに建つ。毘沙門堂の後方には大師堂がある。五大堂北側の石段を上った正面に金堂、その裏手の一段高いところに多宝塔が建つ。境内西端には地蔵院がある。
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財の名称は、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
国宝・重要文化財の大部分は普段は京都国立博物館・東京国立博物館に寄託されており、毎年5月(1日 - 5日頃)の「寺宝虫払い」行事の際に書院で公開される。
かわらけ投げは、この寺が発祥とされる。
境内西の地蔵院前の広場から清滝川の谷(錦雲渓)に向けて「かわらけ」と呼ばれる素焼きの円盤(釉薬を使わない土器製の盃)を投げて厄除けとする。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.