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1974年の森進一のシングル ウィキペディアから
『襟裳岬』(えりもみさき)は、1974年1月15日に発売された森進一の29枚目のシングル。
日本ビクターの創立50周年、さらに同社音楽部門が分離独立してビクター音楽産業株式会社になった1周年記念として特別企画されたうちの一曲[1][2][3]。同社の看板歌手10人、森進一、フランク永井、松尾和子、三浦洸一、鶴田浩二、青江三奈、橋幸夫らの新曲シングル盤を1974年1月に一挙発売しようという内容であった[3][5]。これらのレコードに限って担当制はなく、企画を採用された者が制作責任者になるという試みであった[1]。森に関しては何か新しい発想のレコードをという方針で、当時まだ入社したてのディレクターだった高橋隆(元ソルティー・シュガーのメンバー、当時は高橋卓士)の案が採用された[1][2][6]。高橋が、吉田拓郎から「森さんみたいな人に書いてみたい」という話を以前から聞いていて実現に至ったもの[1][2][3][6]。しかし、ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフの反応は「フォークソングのイメージは森に合わない」「こんな字余りのような曲は森に似合わない」と評され[3]、吉田もこれ以上直せないところまで推敲を重ねたものの、当初はB面扱いだった[3]。当時の森は、母親の自殺や女性問題(女性側の狂言であったことが後に判明)から苦境に立たされていたが、森と同様のスキャンダルに巻き込まれていた吉田からの思いやりと[6]、この曲の3番の歌詞に感動した森が当時所属していた渡辺プロダクションのスタッフの反対を押し切り(森自身、「演歌の枠のみに囚われたくない」との思いがあったのも大きい)、両A面という扱いに変更して発売した[3][7][8][9]。
累計では約100万枚[3][10]または130万枚[11]のレコード売上を記録した。森は本作で1974年の第16回日本レコード大賞と、第5回日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞[3]。ライバルの五木ひろしに先を越されていただけに、その喜びようは尋常ではなかったという[5]。さらに同年の第25回NHK紅白歌合戦においてこの曲で4回目の白組トリおよび初の大トリを飾った。奇しくも紅組トリも島倉千代子の同名異曲の「襟裳岬」(1961年)であった[12][13]。ちなみに、その紅白では、レコ大からの移動で慌てていたこともあり、ズボンのファスナーを開けたまま舞台に出るというハプニングがあったが、間奏中に白組共演者たちに囲まれる中で閉め直し、滞りなく歌い上げた[14]。
曲の構成はAメロ→Bメロ→サビの定型だが[15]、〈わけのわからないことで〉の符割りなどが純度100%の拓郎節といえる[15]。また森も自身の解釈でこれを歌い切った[15]。拓郎は森の歌唱版を最初に聞いたとき、「こういうふうに歌うのか、これはかなわない」と卒倒したという[2]。小西良太郎は「森はよしだたくろう作品をたくろうより上手く歌った」と評価した[16]。
岡本おさみは襟裳岬へ旅行した時、漁師に「いいとこですね」と話しかけたら、北海道の人特有の素朴な言い方で「なんもないんだー」という答えが返って来た。そこで「何もないの、いいじゃないですか」と言ったら「なんもないんだ。焚火してるしか、しょうがないんだ」とまた素朴な答えが返って来た。それで最初、「焚火」という仮タイトルで拓郎に歌詞を渡したという[2]。
ヒットした当時、襟裳岬のあるえりも町の人々は、サビに登場する「襟裳の春は何もない春です」[17]という歌詞に、「何もない春」なんて無いと反感を持たれ、渡辺プロや作詞者の岡本宅への抗議の電話もあった[18]。しかし、襟裳の知名度アップに貢献したということでそういった反感も消え、後にえりも町から森に感謝状が贈られた[10]。反感を買ってしまった「何もない春」の部分であるが、実際は作詞した岡本おさみが襟裳に訪れた時に大変寒く、民家で「何もないですがお茶でもいかがですか?」と温かくもてなしされたことに感動して作詞したものであった。
1997年(平成9年)には、えりも町に観光施設「風の館[19]」が開業したのを機に[11]、えりも町に元からあった島倉版の歌碑と並べる形で[20]、この歌の記念歌碑が設置された。同年8月14日には森夫妻を招いての除幕式が行われた[11]。
『NHK紅白歌合戦』で「襟裳岬」は、初披露時の1974年の第25回に続いて、1997年の第48回、2010年の第61回、2013年の第64回と、合計4度歌唱されている。また、2005年の第56回での出場者選考アンケート「スキウタ」にも、「おふくろさん」と共にランクインした。
1975年4月1日公開 製作配給:日活。ヒット曲を元にした歌謡映画でもある[28]。
原宿のブティックで勤めている野々宮靖子は、ある日の買い物途中に杉山五郎という青年に出会う。やがて2人は恋に落ち、交際は順調に進むかに思われた最中、五郎が急病で倒れ亡くなってしまう。靖子は絶望に打ち拉がれる中葬儀を行い、五郎の友人の田口俊一と共に、五郎の故郷・襟裳岬に遺骨と遺品を持って埋葬しに行く。悲しみに暮れる靖子を田口は支えようとするが、靖子は五郎との思い出と共に生きていく事を決め、襟裳岬をあとにする。
劇団こじかに籍を置き、子役として長く活躍していた山口いづみの映画初主演作[29]。山口はテレビドラマでは女子大生、若奥様役が多かったが、20歳になり、年齢相応の役に喜んだ[29]。1975年3月8日から北海道ロケ[29]。北海道新冠町の明和牧場でハイセイコーとの共演、襟裳岬での撮影があった[29]。なお、監督の加藤彰は、1973年のロマンポルノ『愛に濡れたわたし』で森の『港町ブルース』を効果的に用いて好評を博した実績がある。
1975年1月の段階では、日活の青春路線の大作として[30]、谷口世津主演、白鳥信一監督で『野菊の墓』との二本立てで1975年3月19日公開と報道されていたが[30][31]、日活側が出演を要請していた森進一の出演が難しくなったことが理由で[30]、1975年1月26日に製作延期を発表した(『野菊の墓』は製作中止)[30]。1975年2月には沢田研二主演の『ジュリー・オン・ステージ』と、春休み向け青春映画二本立てを予定していると報道されたが[32]、これも沢田のヨーロッパ旅行などでスケジュールが狂い、沢田の映画出演が不可能になった[32]。このため急遽、東映が9年前にお蔵入りさせた佐久間良子主演の『雪夫人絵図』を買い取り、本作と同時上映した[32]。日活と東映作品の併映は史上初[32]。
1975年のゴールデンウィークは、東宝が山口百恵主演の『潮騒』と和田アキ子主演の『お姐ちゃんお手やわらかに』、松竹が桜田淳子主演の『スプーン一杯の幸せ』と中村雅俊・檀ふみ共演の『想い出のかたすみに』、東映が志穂美悦子主演の『華麗なる追跡』と菅原文太主演『県警対組織暴力』とそれぞれ二本立てで、邦画界はほぼアイドル映画一色に染められ[33][34][35][36]、人気スターの映画での競演にマスメディアも大いに取り上げ、昨今ではまずない華やかな興行争いになった[34][36]。日活の通常プログラムは、人気を博していた日活ロマンポルノであったが、盆正月やゴールデンウィークには、時折一般映画を製作していた[37]。日活はこれに割り込み、山口を女の戦いに押し出した宣伝を展開させたが[36]、ヒットしなかったとされる[37]。
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