トップQs
タイムライン
チャット
視点
エディ・マレー
アメリカの野球選手 (1956 - ) ウィキペディアから
Remove ads
エディ・クラレンス・マレー(Eddie Clarence Murray, 1956年2月24日 - )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の元プロ野球選手(一塁手)。
ニックネームは"Steady Eddie"(ステディ・エディ、怪我なく安定して好成績を残し続けられるため)。
Remove ads
経歴
要約
視点
プロ入り前
ロック高等学校、オジー・スミスとチームメイトだった。また、2人と同時期に、NFLのニューヨーク・ジェッツのディフェンス・コーディネーター、ドニー・ヘンダーソンも同高校へ通っていた。
プロ入りとオリオールズ時代(1977年 - 1988年)
1973年のドラフト3巡目(全体63位)でボルチモア・オリオールズから指名を受けた。
1977年4月7日にメジャーデビュー。160試合に出場して打率.283、28本塁打、88打点を記録し、ミッチェル・ページ、バンプ・ウィルスらを抑えて新人王に選出された[1]。シーズン100三振(104)を喫したのは自身最初で最後であった。守備ではリー・メイがこの年まで一塁手を守り、マレーは指名打者での出場が多かった。翌年からは一塁手としての出場が一気に増えた。
1978年は打率.285、27本塁打、95打点、OPS.836などの成績を残し、MVP投票では8位に入った[2]。
1980年は打率.300、32本塁打、116打点、OPS.873などの成績を残し、MVP投票では6位に入った[3]。
1981年は1981年のMLBストライキの影響で22本塁打・78打点ながら2冠を獲得した。
1982年は打率.316、32本塁打、110打点、OPS.940などの成績を残し、MVP投票ではロビン・ヨーントに次ぐ2位に入った[4]。
1983年、自己最多の33本塁打を記録し、シルバースラッガー賞を初受賞。カル・リプケン・ジュニアやエースのスコット・マクレガーなどと共にチームのワールドシリーズ制覇に貢献し、MVP投票ではチームメイトのリプケンに次ぐ2位に入った[5]。
1984年は打率.306、29本塁打、110打点、OPS.918などの成績を残し、MVP投票では4位に入った[6]。 オフに日米野球で来日した際には全14試合に出場し本塁打9本を放ち、槙原寛己から平和台球場史上最長と言われる場外本塁打を放っている。
1985年は打率.297、31本塁打、124打点、OPS.906などの成績を残し、MVP投票では5位に入った[7]。
1988年12月14日にロサンゼルス・ドジャースにトレード移籍。
3球団所属時(1989年 - 1996年)
89年から90年代前半はドジャース(1989年 - 1991年)、ニューヨーク・メッツ(1992年 - 1993年)、クリーブランド・インディアンス(1994年 - 1996年)と移籍しており、1989年には現役中ながらオリオールズでマレーの背番号『33』が永久欠番に指定されている(正式に指定されたのは引退後の1998年。後述。)。
1990年は打率.330・26本塁打・95打点・OPS.934などの成績を残し、MVP投票では5位に入った[8]。
インディアンス在籍時の1995年6月30日、通算3000安打を達成。ちなみに達成当時チームメイトにデーブ・ウィンフィールドが在籍しており、史上2組目[9]の3000安打達成者が2人在籍となった。
オリオールズ復帰(1996年)
1996年シーズン途中にフラッグシップ・トレードによってオリオールズに復帰し、永久欠番である背番号『33』をつけてプレー。同年9月6日に500本塁打を達成し、ハンク・アーロン、ウィリー・メイズに次いで史上3人目となる3000安打・500本塁打を達成した。なお、MLBでシーズン40本塁打を記録しないまま通算500本塁打に到達したのはマレーが現時点で唯一である(NPBでは張本勲、衣笠祥雄、清原和博もシーズン40本塁打を記録しないまま通算500本塁打を達成している)。
その後引退まで(1997年)
1997年はアナハイム・エンゼルスに移籍し、1997年シーズン途中に再びドジャースに移籍して9月20日に現役引退を表明した。
引退後

ボルチモア・オリオールズの永久欠番に1998年指定。

引退の翌1998年6月7日に現役時代にもっとも活躍したオリオールズで、正式にマレーの背番号『33』が永久欠番に指定、欠番表彰式が行われた。
2003年に資格取得1年目でゲイリー・カーターとともにアメリカ野球殿堂入りを果たした。
引退後は1998年から2001年まで古巣オリオールズで一塁ベースコーチ、2002年から2005年までインディアンス、2006年から2007年までドジャースで打撃コーチを歴任している。
Remove ads
選手としての特徴
メジャーデビューした1977年から20年連続で75打点以上を記録しており、これはMLB唯一の記録である。通算504本塁打は、スイッチヒッターとしてはミッキー・マントル(536本塁打)に次ぐ歴代2位の記録だが、通算安打、通算打点はいずれもマントルを上回っており、しばしば史上最高のスイッチヒッターと称される。満塁本塁打を通算19本打っており、引退当時は歴代2位だったが、現在はアレックス・ロドリゲス、ルー・ゲーリッグ、マニー・ラミレスに次ぐ歴代4位となっている[10]。
スイッチヒッターとして通算安打数や通算打点数ではミッキー・マントルの記録を破っているが、3000安打・500本塁打を達成したにもかかわらず、自身の打撃タイトルは1981年の本塁打・打点の2冠のみである。しかし、毎年怪我も少なく、主軸として3割・30本塁打・100打点前後の成績を達成して試合に出続けた。その姿勢には後輩であり、連続出場の記録を持つカル・リプケン・ジュニアにも大きく影響を及ぼしたと言われる。
Remove ads
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字 はMLB歴代最高
年度別守備成績
- 内野守備
- 外野守備
- 各年度の太字はリーグ最高
- 赤文字はMLBにおける歴代最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
タイトル
表彰
記録
- MLBオールスターゲーム選出:8回(1978年、1981年 - 1986年、1991年)
諸記録
背番号
- 33(1977年 - 1997年)※ボルチモア・オリオールズでは永久欠番
Remove ads
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads