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ロビン・ヨーント

アメリカの野球選手 (1955 - ) ウィキペディアから

ロビン・ヨーント
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ロビン・R・ヨーントRobin R. Yount, 1955年9月16日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州ダンビル出身の元プロ野球選手遊撃手外野手)。

概要 基本情報, 国籍 ...

現役時代をミルウォーキー・ブルワーズ一筋で過ごした球団史上最高のフランチャイズ・プレイヤー[1]であり、2020年現在、通算試合数・打数・得点・安打・二塁打・三塁打・打点・塁打・四球の球団記録を全て保持している[2]

兄のラリー・ヨーントは元投手[3]であったが、1971年9月ヒューストン・アストロズでのメジャーデビューの際にマウンドでの投球練習中に肘を痛め試合で1球も投げることなく退き、メジャーリーグ通算記録には「1試合出場、対戦打者0」と刻まれている。その後も1975年までマイナーリーグで投げ続け、引退後はアリゾナ州で不動産業を営み、後に弟の代理人も務めた。

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経歴

要約
視点

現役時代

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現役時代

1973年MLBドラフト1巡目(全体3位)でミルウォーキー・ブルワーズから指名を受け入団。同年A-級で打率.285、3本塁打、25打点を記録。「メジャーに行っても守りは良いが、打つ方は駄目」という評価だった[4]

1974年4月5日のボストン・レッドソックスとの開幕戦でメジャーデビュー[5]。107試合に出場し打率.250、3本塁打、26打点を記録した。

1975年は4月に打率.386を記録するなど前半戦は.289だったが、後半戦で.242[6]と失速した。20歳の誕生日目前の9月14日のレッドソックス戦で、メル・オットが47年間保持していた10代での最多出場記録241を更新[7]

1976年は全試合出場ながら打率.252、2本塁打に終わる。

1978年は開幕に間に合わなかったが、9月6日のトロント・ブルージェイズ戦でキャリア初の1試合2本塁打を記録[8]するなど打率.293、9本塁打、71打点を記録。オフに突然プロゴルファー転向を宣言し、球団と対立して物議を醸すが[9][4]、翌年のスプリングトレーニングには復帰した。

1980年ウエイトトレーニングによりパワーが付き[9][4]、前半戦で打率.325、13本塁打を記録し[10]オールスターゲームに初選出される。シーズン通算で打率.293、23本塁打、87打点、10三塁打、121得点、リーグ最多の49二塁打を記録し、同年から制定されたシルバースラッガー賞を受賞した。

1981年50日間に及ぶストライキでシーズンが中断・短縮された影響で96試合の出場に留まる。同年は前後期制の変則日程となり、チームは後期優勝。ニューヨーク・ヤンキースとのディビジョンシリーズでは打率.316を記録するが、チームは2勝3敗で敗退した。

1982年は前半戦で打率.327、15本塁打、57打点の成績で[11]、2年ぶりにオールスターゲームに選出され、先発出場を果たした。チームはボルチモア・オリオールズと地区優勝を争い、最後の直接対決4連戦で1勝すれば優勝が決まるが、3連敗を喫して同率で並ばれる。10月3日のシーズン最終戦でジム・パーマーから2本塁打を放って勝利に貢献し、球団創設以来初の地区優勝を果たした[7][12]。キャリアハイの打率.331、29本塁打、114打点、210安打、いずれもリーグトップの46二塁打、長打率.578、OPS.957、367塁打を記録。カリフォルニア・エンゼルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.250、本塁打・打点は共に0だったが、チームは2連敗の後3連勝で初のリーグ優勝。セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは第1戦で4安打、第5戦でも本塁打を含む4安打を放つ[13]など打率.414、6打点を記録するが、チームは3勝4敗で敗退。カージナルスの監督ホワイティ・ハーゾグからは「現在のメジャーで3本の指に入る選手」と絶賛された[4]MVPの投票では1位票28票中27票を獲得して受賞し[14]、2度目のシルバースラッガー賞、初のゴールドグラブ賞も獲得した。

1983年はリーグ最多の10三塁打を記録するが、打率.308、17本塁打、80打点と前年より全体的に成績を落とした。

1985年から肩を手術したため外野手に転向[1]

1986年は4月に打率.408を記録するなど前半戦で打率.330[15]。シーズン通算で打率.312ながら9本塁打と7年ぶりの1桁に終わった。

1987年はチームがMLBタイ記録の開幕13連勝[16]。4月15日のオリオールズ戦でフアン・ニエベスが球団史上初のノーヒットノーランを達成した際には、9回二死からエディ・マレーの右中間へのライナー性の打球をダイビングキャッチして、快挙達成に貢献[4]。打率.312、21本塁打、103打点、198安打と復活を果たした。

1988年6月12日のシカゴ・ホワイトソックス戦でサイクル安打を達成[17]。全試合に出場し、打率.306、13本塁打、91打点、リーグ最多の11三塁打を記録した。

1989年7月2日のニューヨーク・ヤンキース戦で史上5番目の若さで通算2500本安打を達成[7]。後半戦で打率.339[18]と調子を上げ、打率.318、21本塁打、103打点、195安打を記録し、2度目のMVPを外野手として受賞。異なるポジションでの受賞はハンク・グリーンバーグスタン・ミュージアルに次いで史上3人目[9]。また1980年代に記録した1731安打はMLB最多となった[19]。11月13日にフリーエージェントとなり[20]エンゼルス入団が確実となったが、ファンから残留要望の手紙が殺到して翻意し、12月19日に再契約[4][20]

1990年はキャリアワーストの打率.247と不本意な成績に終わる。

1992年9月9日のクリーブランド・インディアンス戦でホセ・メサから二塁打を放ち[21]、通算3000本安打を達成。36歳11ヶ月24日での達成はタイ・カッブハンク・アーロンに次いで史上3番目の若さだった[1]

引退後

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ヨーントの背番号「19」。
ミルウォーキー・ブルワーズの永久欠番1994年指定。

1994年2月11日に現役引退を表明[7]。5月29日にヨーントの背番号19』がブルワーズの永久欠番に指定された[22]

1999年に資格初年度でノーラン・ライアンジョージ・ブレットと共にアメリカ野球殿堂入り[23]

コーチとしては2002年から2004年までアリゾナ・ダイヤモンドバックスでベースコーチ及びベンチコーチを務め、2006年2008年は永久欠番『19』を背負って古巣ブルワーズでコーチを務めた。2014年よりブルワーズのスペシャルアドバイザーに就任し、スプリング・トレーニングにおいて後進の指導を行っている。

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選手としての特徴

詳細情報

年度別打撃成績

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  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

内野守備
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外野守備
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表彰

記録

背番号

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脚注

関連項目

外部リンク

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