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ジェームス三木

日本の脚本家 (1934-2025) ウィキペディアから

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ジェームス三木(ジェームス みき、本名:山下 清泉(やました きよもと)[1]1934年昭和9年〉6月10日 - 2025年令和7年〉6月14日)は、日本脚本家作家演出家、元歌手

概要 ジェームス三木, 誕生 ...

来歴・人物

要約
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生い立ち

1934年、満洲国奉天省奉天市(現・中国遼寧省瀋陽市)生まれ[2][3]。小学生の時に大阪府茨木市に引き揚げる。

中学2年の時、父が心臓病で急死。父の死後、医師である叔父の勧めで医学部を受験する予定だったが、大阪府立市岡高校に入学後は演劇恋愛に熱中していた。

演劇の道へ

高校2年の時、演劇部で自ら主演・演出した芝居が大阪府高校演劇コンクールで1位入賞。これを期に俳優志望となり、俳優座養成所の入所試験を受けたところ、12倍の競争率を突破して合格。1953年、3年生の5月に高校を中退して上京し、第5期生として俳優座養成所に入所。

しかし学費や生活費を稼ぐためのアルバイトに追われ、大阪弁が抜けなかったことによるコンプレックスも災いし第6期に落ち、市原悦子らと同期になる。さらに仲代達矢の後塵を拝していたこともあって養成所を2年で中退。

歌手デビュー

その後テイチクレコードの新人歌手コンクールに応募したところ、200倍の競争率を突破して合格。月給6,800円でテイチクの専属歌手となり、ディック・ミネ三波春夫の前座を務め、また石原裕次郎『錆びたナイフ』のテスト録音を行っている。

テイチクからはフランク永井ビクター)の対抗馬として売り出すためにジェームス三木と名乗ったが人気が出ず[4]、地方巡業など歌手として13年間の下積み生活を送る。その間、大学入学資格検定に合格する。

1960年3月1日、山下典子と結婚。生活のため横浜のナイトクラブ「ナイトアンドデイ」の専属歌手となる(この時の後輩に無名時代の青江三奈がいた)。

小説家に転身

30歳を過ぎて人気が落ち始めた頃、新聞広告を見て文芸同人誌に小説『装飾音符』を発表。この作品が『新潮』に転載される(ジャック天野名義)。これを機に文芸志望へ転じ、シナリオ作家協会主催のシナリオ研究所(現在のシナリオ・センター)に研究生として入所。

1967年に「月刊シナリオ」コンクールに入選[1]。この作品が映画監督・野村芳太郎の目にとまり、ナイトクラブ歌手と二足の草鞋を履きながら野村に師事[1]1969年、34歳のときに映画『夕月』で脚本家としてデビュー[5]

1983年には脳腫瘍で入院したが生還し、仕事復帰。

脚本家としてヒット

1985年連続テレビ小説澪つくし』(NHK総合)が視聴率55.3%を記録し[1]、純愛ブームが巻き起こる。1986年、本作で日本文芸大賞脚本賞受賞。

1987年大河ドラマ独眼竜政宗』(NHK総合)を大ヒットさせ、大河史上1位の視聴率を獲得[1]。執筆前に大量の史料を読み込んだという[6]

1989年、『善人の条件』で映画監督に初挑戦した[7]

1997年、『存在の深き眠り』『憲法はまだか』で第23回放送文化基金賞脚本賞受賞。

1999年、第50回NHK放送文化賞受賞。同年、山下直子と再婚する。

2006年、四国や瀬戸内圏の歴史や伝統文化、偉人を題材にした舞台作品を愛媛から全国へ発信する文化特使を目指し、設立された「坊っちゃん劇場」の名誉館長に就任[8][9]

舞台演出、小説、随筆なども手がけていた。

晩年

2025年6月14日、肺炎のため、死去した[1]91歳没。訃報は同月18日に明らかになった[10]

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エピソード

  • ペンネームの由来は「税務署行き」をもじったもので、歌手時代にディック・ミネに芸名をつけてもらおうとしたところ「これから税務署に行かなくちゃならない」と言われたことから来ているとされていたが、これは事務所がつくったネタだとも言われている。小津安二郎の脚本家としての別名「ゼームス槇」にあやかったとの説もある。
  • 歌手として13年ほど活動するが、一向に芽が出ず、脚本家へ転身した後もこの名前を使い続けている。脚本家としてのデビューは『七人の刑事』(TBS)だったが、名前を覚えてもらえず「ジュース三本」と誤植されたこともあった。
  • 脳腫瘍の経験談や日本国憲法について説く講演活動を、頻繁に行っている[11]
  • 護憲派として知られ、「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めた[12]
  • クイズダービー』(TBS)に複数回、ゲスト解答者として出演。しかし第700回[注釈 1]、第750回[注釈 2]では2回連続0勝8敗で、第845回[注釈 3]の2問目まで不正解で、実質18連敗以上している。
  • 長男は俳優の山下規介[3]。実弟の山下六合雄(やました くにお、1945年5月29日 - 2010年5月1日)にも、脚本や作曲を手がけた作品がある。
  • 愛煙家としても知られ、昨今の公共の場所の禁煙に対し、「せめて70歳以上は、いつどこで喫煙してもよいと、大目にみてくれるとありがたい」との意見が『朝日新聞』2008年8月4日朝刊の投書欄に掲載された。
  • プロ野球は、30年以上に亘り東京ヤクルトスワローズのファン[13]である。
  • 女性遍歴の激しい人物として知られており、1960年に結婚した前夫人が、1992年に暴露本の『仮面夫婦』を上梓。170人以上にも及ぶ女性と関係を持ったことを暴露され、激しいバッシングに遭った。1993年に前夫人と出版社名誉毀損で提訴し、同時に離婚調停入り。名誉毀損訴訟は1994年に和解したが、離婚が成立したのは2000年だった。後に再婚していたが、晩年にも「当時は本当にどん底だった」と振り返っていた[3]
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主な作品

脚本

映画

テレビドラマ

舞台

ゲームソフト

著書

戯曲

  • 青春泥棒徹と由紀子』〈ヤングアダルトブックス〉、大和書房、1984年6月25日。
  • 澪つくし : 戯曲』未来社、1986年4月3日。
  • 花丸銀平実業之日本社、1986年5月28日。
  • 旅よ恋よ女たちよ』実業之日本社、1986年5月28日。
  • 『結婚という冒険 ジェームス三木戯曲集』(1986年、未来社)
  • 『独眼竜政宗 NHKテレビ・シナリオ』(1987年、曜曜社出版)
  • 『ときめき宣言 オリジナルシナリオ』(1989年徳間書店
  • 『安楽兵舎V.S.O.P. ジェームス三木戯曲集』(1991年、未来社)
  • 『巨人の帽子 ジェームス三木戯曲集』(1993年、未来社)

小説

エッセイ

共著

  • 『夏服のイヴ』(1984年、集英社文庫コバルトシリーズ)共著:はりう・しずえ
  • 『夏服のイヴ 松田聖子主演映画』(1984年、実業之日本社)共著:佐藤映湖
  • 『潔い女は美しい 歴史に学ぶ女の生き方』(2002年、致知出版社)共著:杉本苑子
    • 『日本の歴史を動かした女たち』(中経の文庫)
  • 『これまでの道、これからの夢』(2008年、きょうされん)共著:藤井克徳

音楽作品

歌唱

  • 靴みがきとアコーディオン(1957年、テイチク C-4139)
  • 酒場の隅で(1958年、テイチク C-4168)
  • さまよえる靴音(1958年、テイチク C-4245)

作詞

出演

講演活動

  • 2017年4月26日に岐阜都ホテルにおいて、立川談四楼と共に日本たばこ産業株式会社のJTフォーラムの講演を行っている[15]

その他

  • 『日本国憲法前文と九条の歌-CDブックス』(あけび書房、2004年ISBN 4871540510(うた・きたがわてつ・寄稿・早乙女勝元森村誠一,写真・田辺順一
  • 春の歩み - 私的なノートで、山下典子によると、肉体関係をもったのべ89人の女性の容姿、女性器をランク付けし、女性器の感想などを書いていた[16]。山下典子は76人目だった[16]
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脚注

関連項目

外部リンク

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