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ドワイト・エバンス

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ドワイト・エバンス
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ドワイト・マイケル・エヴァンスDwight Michael Evans, 1951年11月3日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタモニカ出身の元プロ野球選手外野手)。ニックネームは「Dewey」。

概要 基本情報, 国籍 ...
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人物・来歴

要約
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1969年のMLBドラフトの5巡目(全体107位)でボストン・レッドソックスに指名され入団。マイナーリーグを経て1972年終盤にメジャー昇格し、同年9月16日インディアンス戦でメジャーデビュー。この試合ではルイス・ティアントが3安打完封し、10-0で勝ったが、二塁打を打ったレジー・スミス(のち巨人)の代走として起用され、そのまま右翼の守備位置についた。翌1973年に119試合に出場。打率.223、本塁打10、打点32に終わったが、チームはスミスをカージナルスに放出し、エバンスを正右翼手として起用。1974年には133試合に出場し、以後、故障で73試合の出場に留まった1977年を除いて右翼手として活躍。

特に守備力に優れ、右翼が広い本拠地フェンウェイ・パークで鉄壁の守備と強肩を誇り、通算8度ゴールドグラブ賞を受賞した。1970年代後半にはジム・ライスフレッド・リンとともにメジャー最強クラスの外野陣を誇った。1980年代にリン移籍後は中堅手トニー・アーマスに代わったが、それもMLB最強クラスの外野陣であった。

1978年には初のオールスター出場を果たし、以後3回出場。50日間に及ぶストライキでシーズンが短縮された1981年には22本塁打を放ち、アメリカンリーグ本塁打王に輝いた。同年シルバースラッガー賞も受賞。選球眼にも優れ、同年(85四球)と1985年(114四球)、1987年(106四球)の3回、四球がリーグ1位であった。1982年の出塁率.402、1984年の121得点もリーグ1位であった。1984年6月28日にはサイクル安打を記録。1986年4月7日開幕戦デトロイトタイガー・スタジアムで行われたタイガース戦)では、1番打者として起用され、ジャック・モリスの初球を見事に本塁打。この試合は慣行(こちら参照)を破って他の球場に先駆けて行われ、その年MLBの全ての試合の初球を本塁打したこととなった。後の2018年シカゴ・カブスイアン・ハップが32年ぶりに記録[1]。(ちなみに、それまでの記録は1982年バンプ・ウィリス(当時カブス、翌年より阪急ブレーブスでプレイ)の2球目であった。ただし、「その年のメジャーで一番早く行われた開幕戦」でなければ、2004年松井稼頭央(当時メッツ)のように他にも例がある。)また、それを含めて開幕戦で通算4本塁打を記録している。

35歳となった1987年途中に、ビル・バックナーが移籍して以後は一塁手としての起用が増えたが、この年の打率.305、34本塁打、123打点はいずれも自己最高であった。その後も1989年までは3年連続で100打点をマークしたが、1990年には10年ぶりに20本塁打に届かないなど急激に衰え、その年限りでボルチモア・オリオールズに移籍。1シーズンだけプレイしたが、101試合の出場でわずか6本塁打、38打点に終わり、この年限りで現役を引退した。

「The Man of Thousand Stances」と言われたぐらい打撃スタンスをよく変えた打者であった。現役時代の背番号は「24」。レッドソックスでは他にトム・ブラナンスキーケビン・ミッチェルマイク・スタンリーマニー・ラミレス斎藤隆らが着けていた。2002年にレッドソックスでコーチを務めた際には前出ラミレスが「24」をつけていたため、「25」をつけた。また、息子ティモシーが難病にかかったため、1980年代よりスーザン夫人とともに、その病気を研究するニューイングランドの財団に多額の寄付を行っている。

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詳細情報

年度別打撃成績

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  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

内野守備
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外野守備
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タイトル

表彰

記録

背番号

  • 40(1972年 - 1973年途中)
  • 24(1973年途中 - 1991年)
  • 25(2002年)
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脚注

外部リンク

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