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モーガン・フリーマン
アメリカの俳優、映画監督、ナレーター ウィキペディアから
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モーガン・ポーターフィールド・フリーマン・ジュニア(Morgan Porterfield Freeman, Jr.、1937年6月1日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州メンフィス出身の俳優、映画監督、ナレーター。
2004年『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー助演男優賞を受賞。その他にも『ドライビング Miss デイジー』、『ショーシャンクの空に』、『セブン』などのヒット作に出演歴があり、その安定感と味のある演技によって、母国アメリカのみならず世界各国で賞賛を浴びる実力派国際俳優であり、最も名誉ある俳優の一人である[1][2]。身長187cm。
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経歴
要約
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生い立ち
1937年6月1日、テネシー州メンフィスに出生。父モーガン・ポーターフィールド・フリーマン(1961年肝硬変により死去)は理髪師で、母メイミー・エドナは清掃婦だった。モーガンには3人の兄がいる。フリーマン家はミシシッピ州グリーンウッド、インディアナ州ゲーリーなど多くの地を転々とした後イリノイ州シカゴに居を据えた。モーガンは9歳の時小学校の演劇で主役を務めている。
12歳の時には州の演劇コンクールで優勝し、高校時代にはテネシー州ナッシュヴィルでラジオ演劇に出演していた。1955年、ジャクソン州立大学の演劇奨学金を断り合衆国空軍の機械工となった。
デビュー前
1960年代前半、モーガンはロサンゼルスへと移住。クリント・イーストウッドなどが通っていたロサンゼルス・シティー・カレッジに事務員として勤務した。一時期はニューヨークにも住んでいたことがあり、1964年に開かれたニューヨーク万国博覧会でダンサーを務めた。またサンフランシスコではオペラ歌劇団にも所属していた。
デビュー
モーガンの実質的な役者デビューは、巡業劇団に所属していた時に出演した『The Royal Hunt of the Sun』という劇で、1965年公開のシドニー・ルメット監督の『質屋』という映画にも出演している。1967年には『The Niggerlovers』でヴィヴィカ・リンドフォースの相手役としてオフ・ブロードウェイにデビュー。翌年の1968年には、役者全員が黒人バージョンの『ハロー! ドリー』でブロードウェイの舞台に立った。
端役としてではないフリーマンの最初の出演作品は1971年公開の『Who Says I Can't Ride a Rainbow?』という映画であったが、彼が有名になったのは連続テレビドラマシリーズ『Another World』とPBSテレビの子供番組『The Electric Company』だった。
「『エレクトリック・カンパニー』に関しては1 - 2年やって辞めるべきだった。でもお金に目が眩んだね。特別優遇措置みたいのがあってね。多くの俳優がそれを享受していた。彼らは真面目に役者業をやる気がなかった。僕もその一員になっていたけどね。それで「若者たちを愛しているぜ!」なんて言っていたんだ。そんなところに3年という長い月日いてしまったよ」と後に彼は述べている。
人気俳優
1980年代前半からフリーマンは、知的で温かみのあるキャラクターで助演男優として頭角を現す。有名になった彼はブルース・ベレスフォード監督の『ドライビング Miss デイジー』(1989年)やエドワード・ズウィック監督の『グローリー』(1989年)など次第に主役級の役柄を演じるようになった。
1994年、フランク・ダラボン監督の『ショーシャンクの空に』ではティム・ロビンスと共に主役レッドを演じ最高の評価を得た。彼の魅力が一気に開花したこの作品を機にケヴィン・レイノルズ監督『ロビン・フッド』、デヴィッド・フィンチャー監督『セブン』、ミミ・レダー監督『ディープ・インパクト』など多くの映画で成功を収めた。
アカデミー賞には『N.Y.ストリート スマート』、『ドライビング Miss デイジー』、『ショーシャンクの空に』で三度ノミネートされていたが受賞はなく、2004年に公開されたクリント・イーストウッド監督の『ミリオンダラー・ベイビー』で四度目の候補にして同助演男優賞を受賞。会場の映画人がスタンディング・オベーションで讃えた。2009年には同じイーストウッドの監督作品『インビクタス/負けざる者たち』で元南アフリカ大統領のネルソン・マンデラを演じて五度目の候補となった。
プロデューサーとして
1997年に、映画プロデューサー、ロリー・マクリアリーと共に映画制作会社「リヴェレーションズ・エンターテイメント」を設立。また2人は、これの姉妹会社にあたるオンライン映画配給会社「クリックスター」も立ち上げた。
ナレーターとして

フリーマンはナレーターとしての仕事も頻繁に行っており、2005年にはスティーヴン・スピルバーグ監督『宇宙戦争』、アカデミー賞最優秀ドキュメンタリー映画賞を受賞した『皇帝ペンギン』のナレーターを務めた。
フリーマンは宇宙工学や航空工学などの科学分野に造詣が深い。前述のクリックスターでは『私たちの宇宙』というコーナーを持っており、科学系のビデオクリップを制作配信している。テレビにおいても、ディスカバリーチャンネルにてシリーズ番組『モーガン・フリーマンが語る宇宙』のホストを務め、宇宙に関する解説を行っている。
2022年11月20日、カタールで開催されたワールドカップ開会式に登場。生まれつき下半身が欠損しているユーチューバーに対し話しかける役を担った[3]。
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私生活
要約
視点
1967年10月22日、ジャネット・アデア・ブラッドショウと結婚したが1979年離婚。1984年に結婚したマーナ・コリー・リーとは2008年8月に離婚。最初の結婚の前に生まれた二人の息子アルフォンソとサイフォレイ、前妻との間に娘モーガナがおり、前妻の連れ子エディーナを養女としている。実の息子で俳優のアルフォンソ・フリーマンと、『最高の人生の見つけ方』で親子役として共演を果たしている。
現在はミシシッピ州チャールストンとニューヨークに居を構えており、自家用飛行機運転免許を所有している[4]。またミシシッピ州クラークスデールには、「マディディ」というレストランとブルースクラブ「グラウンド・ゼロ」を所有している。2008年にはメンフィスに「グラウンド・ゼロ」2号店を開店した。
フリーマンはアフリカ系アメリカ人のコミュニティーが主催する「黒人の歴史月間」に対して公式に、それらのイベントに参加しない姿勢をとっている。『黒人の歴史はアメリカ合衆国の歴史である』というのが彼の理由である[5]。彼の強い主張によれば『黒人差別を無くすには、その話をしないことだ』と語っており『アメリカに「白人の日」は無い』と述べている。CBS放送のドキュメンタリー番組に出演した際にはインタビュアー(白人)に対し「私はあなたを「白人」とは呼ばない。そして私はあなたにお願いする、私を「黒人」と呼ばないように、と」と述べた[5]。また、アクターズ・スタジオ・インタビューでは司会者が「映画『ディープ・インパクト』では黒人の大統領を演じました」と発言したのに対し、「私は黒人だ。黒人を演じるのではない」と返し、聴衆はその言葉に拍手を送った。その後、好きな言葉を聞かれて「ファック」と答えている。
2006年5月13日、ミシシッピ州のデルタ州立大学より名誉博士号を贈られた。
2006年10月28日、ミシシッピ州ジャクソンで行われたミシシッピの最優秀賞授賞式にて、長年映画に出演している功績を評価され、生涯業績賞が贈られた。「彼はまるで父親のような存在だ」と大会主催者は語った。「フリーマン氏はどんな役を演じようとも誰も近づけない尊敬に値する人物の一人だ」と賞賛が贈られた。
2008年8月3日深夜、自動車を運転し自宅に戻る途中に車道の路肩を飛び越え横転、命に別状は無かったものの骨折などの重傷を負い、テネシー州メンフィスの病院に搬送された。その際、レスキュー隊に救出される時に多くのやじ馬が周囲を撮影しようとしたところ「ただ撮りはダメだよ」と冗談まじりに話していた[6]。なお、事故の際に酒気帯び運転をしていたのではないかという指摘が同乗の女性より主張されたが、モーガンはこれを否定。女性と裁判で争う構えを見せていたが、2009年11月に双方の間で示談が成立している[7]。
2015年8月16日、孫娘のエディナ・ハインズ(最初の妻ジャネット・アデア・ブラッドショーの孫)がニューヨーク州マンハッタン区北部のハーレムで刺殺された[8]。
2018年5月25日、過去に女性へのセクハラ行為疑惑が浮上。直後、フリーマンは謝罪の声明を出したが、性的暴行や虐待のような行為はしていないと語っている。
コマーシャルには出演していないが、その理由について「自分が宣伝すればみんなが信じて買ってくれるからだ。不要なものを買わせてしまうのは申し訳ないからね」と答えている。
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出演作品
映画
テレビ
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監督作品
受賞歴
受賞
- 1987年全米映画批評家協会賞助演男優賞:『NYストリート・スマート』
- 1987年ニューヨーク映画批評家協会賞助演男優賞:『NYストリート・スマート』
- 1987年ロサンゼルス映画批評家協会賞助演男優賞:『NYストリート・スマート』
- 1987年インデペンデント・スピリット賞助演男優賞:『NYストリート・スマート』
- 1989年ゴールデングローブ賞主演男優賞:『ドライビングMissデイジー』
- 1990年ベルリン国際映画祭最優秀共演賞:『ドライビングMissデイジー』(ジェシカ・タンディと)
- 2004年アカデミー助演男優賞:『ミリオンダラー・ベイビー』
ノミネート
- 1987年アカデミー賞助演男優賞:『NYストリート・スマート』
- 1987年ゴールデングローブ賞助演男優賞:『NYストリート・スマート』
- 1989年アカデミー賞主演男優賞:『ドライビングMissデイジー』
- 1992年MTVムービー・アワード・コンビ賞:『ロビン・フッド』(ケビン・コスナーと)
- 1994年アカデミー主演男優賞:『ショーシャンクの空に』
- 1994年ゴールデングローブ賞主演男優賞:『ショーシャンクの空に』
- 1996年MTVムービー・アワード・コンビ賞:『セブン』(ブラッド・ピットと)
- 2004年ゴールデングローブ賞助演男優賞:『ミリオンダラー・ベイビー』
- 2004年放送映画批評家協会賞助演男優賞:『ミリオンダラー・ベイビー』
- 2009年アカデミー主演男優賞:『インビクタス/負けざる者たち』
- 2009年ゴールデングローブ賞主演男優賞:『インビクタス/負けざる者たち』
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日本語吹き替え
主に担当しているのは、以下の二人である。
- 坂口芳貞
- 『安息の地』(NHK版)で初担当。以降、亡くなるまでほとんどの作品で吹き替えを担当し、フリーマンの専属(フィックス)として定着した[9][10]。
- 坂口はフリーマンの吹き替えに関して「クソ真面目かと思うとそうじゃなかったり、声が非常に高いかと思うと急に低くなったり。どこで息を吸ってるのかなと思うくらい息を継ぐ隙もなくて。シリアスさとユーモアがすぐに来るので、この人を吹き替えるのは難しいですね。いつも苦労していますよ」と語っている。
- また、フリーマンの演技については『ダニー・ザ・ドッグ』(テレビ東京版)収録時の2007年のインタビューでは「モーツァルトのクラシック、それにジャズとかがすごく似合ってるんだよね。私自身には似合ってないけど(笑)」と評しており[11]、12年後である『ウォンテッド』(BSテレ東版)収録時は「老いて益々盛んですね」と感心していた[12]。
- 晩年は病気療養に入り、2020年2月13日に死去したため、2019年10月末に収録された『ポイズンローズ』が遺作となった[13]。
- 池田勝
- 『グローリー』(ソフト版)で初担当。坂口に次いで代表作の多くを吹き替えており、フリーマンのもう一人のフィックスとして知られている。
- 『ダークナイト・トリロジー』のルーシャス・フォックス役は全作品で担当した(ソフト・劇場公開版)[14]。
- 2012年の『ダークナイト ライジング』を最後に起用が途絶えていたが、『エンド・オブ・ステイツ』のアラン・トランブル大統領役に関しては、前2作にあたる『エンド・オブ・ホワイトハウス』と『エンド・オブ・キングダム』では上述の坂口が担当していたものの、本作の吹き替え版の収録時に坂口は既に病気療養に入っていたため出演を見送っており(本作のソフトが発売される前の2020年2月に逝去)、池田が他の役と兼任しながら引き継いだ。
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脚注
外部リンク
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