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ライアン・ジマーマン

アメリカの野球選手 (1984 - ) ウィキペディアから

ライアン・ジマーマン
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ライアン・ウォレス・ジマーマンRyan Wallace Zimmerman, 1984年9月28日 - )は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州ボーフォート郡ワシントン英語版出身の元プロ野球選手内野手)。右投右打。愛称は"ミスター・ナショナルズ"他(後述)。

概要 基本情報, 国籍 ...

2005年から2021年にかけて実働16年、ワシントン・ナショナルズ一筋でキャリアを過ごし、チームの低迷期からワールドシリーズ制覇まで経験した。

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経歴

要約
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プロ入り前

15歳の時にバージニア州タイドウォーター地区の選抜チームに選ばれた。そのころのジマーマンは長打力がなく、小柄で遊撃手だった。当時、二塁手B.J.アップトン三塁手デビッド・ライトがこの選抜チームに所属していた[1]バージニア大学在学時から三塁手として活躍。

プロ入りとナショナルズ時代

2005年MLBドラフト1巡目(全体4位)で当時ワシントンD.C.に移転したばかりのワシントン・ナショナルズから指名され、プロ入り。契約金は球団史上最高額となる297万5,000ドル[2]。A級サバンナ・サンドナッツで4試合に出場し、AA級ハリスバーグ・セネターズで63試合に出場。両マイナーチームで打率.336・11本塁打・38打点の成績を残し、9月1日にメジャーデビューを果たした。20試合の出場ながら.397という高い打率を残した。シーズン終了後の11月に球団は正三塁手のビニー・カスティーヤサンディエゴ・パドレスへ放出した[3]。同月にベースボール・アメリカによる2006年の有望株ランキングで球団トップの評価を受けた[2]

2006年ブラッド・ウィルカーソン2002年)の新人選手としての球団記録に並ぶ20本塁打を放ち[4]、チームトップとなる110打点をマークし、ナショナルズの三塁はしばらく安泰と言われる成績を残した[3]ナショナルリーグで新人選手が1954年以降で100打点を上回るのはマイク・ピアッツァアルバート・プホルスに次ぐ史上3人目、47二塁打は新人選手としては歴代2位タイとなった[5]。また、サヨナラ安打を3本を放ち、9月2日のアリゾナ・ダイヤモンドバックスとのダブルヘッダー初戦で延長11回にサヨナラ四球を記録している[5]。守備では守備率が.965でスコット・ローレンアラミス・ラミレスと共に三塁手としてリーグ1位タイとなった[5]。走塁面でも11盗塁を記録。新人王の投票ではフロリダ・マーリンズハンリー・ラミレスとの新人王争いとなったが、わずか4点差の2位に終わり、新人王は獲り逃した[6]

2007年は前半戦は右投手から苦手のスライダーを多投され苦しんだが、後半に克服した[7]。全162試合に出場し、2年連続20本塁打以上となる24本塁打を記録。守備面では失策こそ23個と多かったものの、三塁手として1位となる守備機会511回を記録(同年のゴールドグラブ賞受賞者の2人、デビッド・ライトは324守備機会で24失策、エイドリアン・ベルトレは426守備機会で18失策)。

2008年はナショナルズの新本拠地ナショナルズ・パークでの開幕戦となった3月30日の対アトランタ・ブレーブス戦でサヨナラ本塁打を放った。5月18日のボルチモア・オリオールズ戦で二塁へヘッドスライディングした際に左肩を痛め、その後も出場し続けていたが、5月26日から欠場。連続試合出場が205で途切れ、6月3日に故障者リスト入りした[8]。7月22日にメジャー復帰してからは打率.306を記録。シーズン終了後、年俸調停権を得たジマーマンは、2009年シーズンの年俸として390万ドルを要求し、対して球団側は275万ドルを提示した。

2009年2月20日に調停を避け、1年332万5,000ドルで合意したが[9]、4月20日に2009年シーズンから当時の球団史上最高額となる5年総額4,500万ドルで契約延長した[10]。シーズンでは開幕3試合目の4月8日から5月12日にかけて30試合連続安打を記録。球団史上、ブラディミール・ゲレーロの31試合(1999年)に次ぐ歴代2位[11]オールスターゲーム初選出を果たした。シーズントータルでは30本塁打、100打点をクリアするなどキャリアハイの成績を残した。オフにはシルバースラッガー賞ゴールドグラブ賞を初めて受賞した。

2010年は本塁打、打点は前年を下回ったが自身初の打率.300を記録するなど、打率、出塁率、OPSでキャリアハイを記録した。オフには2年連続でシルバースラッガー賞を受賞した。

2011年は開幕直後に故障で約2ヶ月の欠場を余儀なくされた。結局3年ぶりに規定到達を逃した。

2012年はシーズン開幕前の2月26日に6年総額1億ドルの契約を結び、2度目となる契約延長を果たした[12]。オプションとして全球団トレード拒否権が含まれ、2020年シーズンの選択権を球団側が所持した。シーズンでは2年ぶりに規定到達し、打率.282、25本塁打とクリーンアップの役割を果たした。

2013年も前年に近い成績を残した。

2014年は2度の長期離脱で61試合の出場に留まり、僅か5本塁打に終わった。

2015年9月2日のセントルイス・カージナルス戦で通算200本塁打を達成した。この年は三塁手にユネル・エスコバーアンソニー・レンドンダニー・エスピノーサが起用されたため、三塁手としての出場はなく、主に一塁手として出場した。前年と同じく二度の故障離脱により、この年は95試合の出場に留まり、打率がメジャーデビュー以来ワーストとなる.249まで落ちたが、16本塁打、73打点という成績を残した。

2016年も正一塁手として起用されたが、夏場の故障者リスト入りと成績不振により出場は115試合に留まった。3年連続で規定打席到達を逃し、打率.218、15本塁打、46打点という打撃成績に終わった。

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2017年5月8日

2017年は開幕から絶好調で、4月の月間成績は打率.420、11本塁打、22打点と驚異的な数字を残し、プレイヤー・オブ・ザ・マンスを受賞。5月以降はやや落ち着いたが、それでも前半戦をリーグ2位となる打率.330、19本塁打の成績を残し2009年以来となるオールスターゲームに選出された。7月17日のシンシナティ・レッズ戦で通算235本塁打を達成し、前身のエクスポズも含めて、ブラディミール・ゲレーロの球団通算本塁打記録を抜いた[13]。終盤に入って7月、8月と月間打率が2割台前半に留まったが、8月9日のマイアミ・マーリンズ戦では球団通算打点記録となる906打点に到達した[14]。9月以降復調してシーズントータルでは打率.303、ナ・リーグ6位タイの36本塁打、同じくナ・リーグ6位の108打点、OPS.931という成績を残した。自身初となる「3割、30本塁打、100打点」を達成した。

2018年はスプリングトレーニングでマイナーリーグの試合に出たり、逆にオープン戦では2打席しか立たなかったりして話題になった[15]。開幕後は元々スロースターターなこともあり、4月は打率.184に終わった。5月12日には腹斜筋の張りで故障者リストに入った[16]。7月20日に復帰した後は調子を上げていったが、マーク・レイノルズマット・アダムスとの競争もあり、例年より出番は減少した。しかし、8月1日のニューヨーク・メッツ戦で通算1695安打に到達し、ティム・ウォーラックの球団通算安打記録を抜いた[17]。最終成績は85試合で打率.264、13本塁打・51打点だった。

2019年は4月終盤に足裏の筋膜炎を患い、約2か月離脱した。7月後半にも同じ故障で10日間の故障者リスト入りしている[18]。最終的に52試合の出場にとどまり、打率.257、6本塁打・27打点だった。ポストシーズンではワイルドカードゲーム英語版で2点ビハインドの8回裏に代打で出場し、バットを折りながらも逆転勝利につながる中前安打を打った[19]ナショナルリーグディビジョンシリーズ(NLDS)第2戦から正一塁手として起用され、第4戦では本塁打を記録した。ナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ(NLCS)第3戦では適時打を放ち、球団史上初のワールドシリーズ進出に貢献した。オフの11月2日に球団が選択権を行使しなかった為、同日にFAとなった[20]

2020年1月28日に200万ドルの単年契約でナショナルズと再契約したことが発表された[21]。オプションとして最大300万ドルの出来高が含まれる。しかし、同年はCOVID-19の影響でシーズン出場を辞退したため、開幕から制限リスト入りした。オフの10月28日にFAとなった[22]

2021年1月23日にナショナルズと単年100万ドルで再契約を結んだ[23]。シーズンでは2年ぶりにMLB出場を果たした。5月22日に殿堂入りしたティム・レインズを抜き、ナショナルズ(エクスポズ含め)の球団史上最多得点を塗り替えた[24]。オフの11月3日にFAとなった[25]

引退後

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ジマーマンの背番号「11」。
ワシントン・ナショナルズの永久欠番2022年指定。

2022年2月15日、現役引退を発表した[26]。3月21日に自身の背番号『11』がナショナルズのモントリオール移転以後初の永久欠番に指定されることが発表された[27]

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選手としての特徴

新人時代は三塁守備の評価が高く、MLBの中でもトップクラスだとされた[7]。その好守から「ブルックス・ロビンソンの再来」と言われることもあり、たびたび果敢にダイビングキャッチを試みていた[28]。2009年にはゴールドグラブ賞を初受賞した。しかし、2011年以降は股関節の故障や送球イップスのため守備力が下落し、2014年には左翼手にも就き、2015年からは一塁手に転向した。

2008年は地元記者から「将来は首位打者打点王を獲れるだけではない。監督がグリーンライトさえ出せば、30-30も狙える。完璧な選手」と高く評価されていた[29]。率先して練習に励み、人格もしっかりしているため天性のリーダーと評価されている[7]

人物

愛称は"Magnum Z.I."、"ザ・ゼッドマン"("The Z Man")[30]、"ジム"("Zim")[30]、"ミスター・ナショナル"[30]、"ミスター・ウォークオフ"[30]

2017年はミスター・ウォークオフを[31]2018年と2019はジムをそれぞれプレイヤーズ・ウィークエンド英語版の背ネームに使用している[32][33]

ジョーダン・ジマーマンとは血縁関係はなく綴りも異なる[注釈 1][34]

詳細情報

年度別打撃成績

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  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

内野守備
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外野守備
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表彰

記録

背番号

  • 25(2005年)
  • 11(2006年 - 2019年、2021年)※ワシントン・ナショナルズの永久欠番
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脚注

関連項目

外部リンク

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