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佐々木宏一郎
日本のプロ野球選手 (1943-1989) ウィキペディアから
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佐々木 宏一郎(ささき こういちろう、1943年8月30日 - 1989年5月22日[1])は、岐阜県揖斐郡池田町出身のプロ野球選手(投手)・解説者。
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史上11人目の完全試合達成者。
1960年代後半から1970年代前半にかけての近鉄バファローズにおいて、アンダースローの技巧派として[2]鈴木啓示・清俊彦と共に主力投手の1人として活躍した。
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経歴
岐阜短大付属岐阜では、1960年秋季中部大会県予選準決勝に進むが、県岐阜商に敗退。
1961年夏の甲子園県予選でも準決勝に進出するが、またも県岐阜商に敗れた。
1962年、大洋ホエールズにテスト入団[1]。120人の応募者の中で唯一のテスト合格者であり、1年目から早速一軍での登板機会があった。4試合に登板して1勝を挙げるが、同年シーズン途中に日石から同姓の佐々木吉郎が加入したため、「佐々木は2人もいらない」という不可解な理由で同年オフに解雇される。佐々木宏一郎本人は「人生の理不尽を感じた」が、「野球ができればどこでもよい」と自らに言い聞かせた[3]。なお、佐々木吉郎も1966年に完全試合を達成。
1963年に近鉄バファローズへ移籍[1]。別当薫監督と故郷・岐阜の先輩でもある武智文雄二軍投手コーチに鍛えられ、アンダースローから繰り出される切れの良いシュートとスライダーを武器に、次第に頭角を現した。
1964年にはリーグ最多の73試合に登板、10勝を記録し初めて規定投球回(14位、防御率3.13)に達する。
1969年は15勝7敗、防御率2.35(3位)を記録。最も活躍したのは1970年で、10月6日の南海ホークス戦でプロ野球史上11人目となる完全試合を達成している[1]。同年にはシーズン10連勝を記録し、最終的に最高勝率(17勝5敗、勝率.773)のタイトルも獲得した[1]。なお、防御率2.05は新人王にも選ばれた佐藤道郎(南海)に次ぐリーグ2位であった。
1975年シーズン途中に島本講平外野手との交換トレードで南海ホークスへ移籍し[1]、野村克也選手兼任監督の大胆さと緻密さの重なり合ったリードから「相手を翻弄するテクニック」を教えられて蘇る[4]。移籍後は主に中継ぎで起用され、1981年オフに現役を引退[1]。プロ野球選手として20年という長期間を過ごしたが、在籍した3球団でリーグ優勝を1度も経験できなかったことが心残りであったという。
普段は口数も少なく物静かな性格であったが、1967年8月3日の対阪急ブレーブス戦では阪急ファンのヤジに立腹してスタンドのファンにボールを投げつけて負傷させ、パ・リーグから厳重戒告と制裁金の処分を科されている。
引退後はKBS京都「近鉄エキサイトアワー」解説者(1982年)を経て、心斎橋でスナック『ササ』を経営した[1]。
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エピソード
要約
視点
近鉄バファローズの入団テストに合格した際、佐々木の獲得を推挙したのは投手コーチだった武智文雄である。佐々木は、武智の現役時代と同じ背番号「16」を背負い、近鉄の主力投手として活躍し、1970年に球団史上2人目の完全試合を達成した。佐々木の入団当時は背番号「16」を武智が付けていたが、入団翌年の1964年に佐々木と武智が背番号を交換した。
また、近鉄球団で初の完全試合を達成したのは、佐々木を指導した武智である(1955年6月19日、大映スターズ戦)。武智はパールス時代の球団創成期よりエースとして活躍し、1954年には26勝を挙げて最多勝利のタイトルを獲得。そして、近鉄球団の投手では初の通算100勝も達成している。
さらに、2人の完全試合はいずれも大阪スタヂアムで成し遂げられたもので、右下手からの変則投法であった点も武智と佐々木は共通していた。なお、プロ入り当初はサイドスロー気味のフォームで投げていた佐々木にアンダースローへの転向を勧めたのも武智である。「アンダースローになって球威が増した」と武智は評している。
近鉄球団に在籍した期間のみの成績で通算100勝以上を記録したのは、55年の球団史において武智(100勝)・佐々木(113勝)・鈴木啓示(317勝)のわずか3人だけである。
近鉄時代のチームメートだった土井正博も佐々木と同じく、西武移籍後の1981年に現役を引退しているが、水島新司作の「あぶさん」ではシーズン終盤の西武ー南海戦で試合冒頭、引退登板として打者一人だけに登板しているが、この試合でかつての僚友への餞としてトップバッターを務め、キャッチャーフライに討ち取られ、労を労った際に、佐々木に「俺も決心がついた」と話し、佐々木もダグアウトに戻った際、景浦に「土井も今季限りだそうだ」と語るシーンが描かれている。因みに両者ともチーム在籍中、選手として優勝の美酒を味わう事はなかったが、近鉄は佐々木の南海移籍後に初めて、西武も土井の引退翌年に西鉄時代の1963年以来の(福岡から所沢に移転後では初めて)優勝をしている。
引退後、KBS京都で解説を担当したが1年で辞めている。夫人によれば、佐々木本人はもうちょっとやりたかったようだが、もともとの喋り下手に加え、KBS側からの「7:3くらいで近鉄を応援した放送を」[注釈 1]という要請に反して、完全に中立的なトーンで解説を行っていたことが影響したという[5]。
引退後に開いたスナック「ササ」には完全試合達成時の佐々木のピッチングフォームを撮影した写真パネルが飾られ、電話番号も下4桁が現役当時の背番号から0016とし、コースターは球形で数字の16とボールの縫い目を描いたもの、さらに箸置きも野球帽を形どったものにするなど、随所にベースボールスナックとしての特色を出すための工夫を凝らしていたという。佐々木は客に対しての愛想はあまり良くなかったが、常連客達はむしろそれを気に入っていたのだという[6]。なお、「ササ」は佐々木の死去後も夫人の手で切り盛りされていたが、1994年に閉店した[7]。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最高勝率:1回 (1970年)
記録
![]() | この選手の記録に関する文献や情報源が必要です。 (2013年12月) |
- 初記録
- 初登板:1962年8月9日、対中日ドラゴンズ16回戦(中日スタヂアム)、3回裏1死に2番手で救援登板、1回2/3を無失点
- 初奪三振:同上、3回裏にドン・ニューカムから
- 初勝利:1962年8月11日、対国鉄スワローズ20回戦(川崎球場)、3回表に2番手で救援登板、6回1/3を無失点
- 初先発:1963年6月10日、対南海ホークス11回戦(日生球場)、1回無失点
- 初先発勝利:1963年7月21日、対南海ホークス21回戦(大阪スタヂアム)、8回2/3を5失点(自責点3)
- 初完投勝利:1963年8月17日、対東映フライヤーズ20回戦(日生球場)、9回2失点
- 初完封勝利:1964年7月14日、対阪急ブレーブス17回戦(日生球場)
- 初セーブ:1977年8月6日、対クラウンライターライオンズ後期4回戦(長岡市悠久山野球場)、6回表に2番手で救援登板・完了、4回1失点
- 節目の記録
- 1000奪三振:1971年7月4日、対阪急ブレーブス18回戦(日生球場)、1回表に福本豊から ※史上40人目
- 100勝:1971年10月4日 対南海ホークス23回戦(日生球場)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上55人目
- 500試合登板:1974年5月26日、対南海ホークス前期9回戦(大阪スタヂアム)、先発登板で6回4失点 ※史上30人目
- 600試合登板:1979年4月16日、対近鉄バファローズ前期3回戦(大阪スタヂアム)、7回表1死に2番手で救援登板、1回2/3を1失点 ※史上17人目
- その他の記録
背番号
- 56 (1962年)
- 62 (1963年)
- 16 (1964年 - 1975年途中、1980年途中 - 同年終了)
- 32 (1975年途中 - 1980年途中)
- 53 (1981年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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