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大家友和

京都府京都市出身のプロ野球選手(投手) ウィキペディアから

大家友和
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大家 友和(おおか ともかず、1976年3月18日 - )は、京都府京都市右京区出身の元プロ野球選手投手、右投両打)、野球指導者。

概要 千葉ロッテマリーンズ 二軍チーフ投手コーチ #89, 基本情報 ...

メジャーリーグベースボール(以下:MLB)での登録名は「トーモ・オーカ(Tomo Ohka)」。

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経歴

要約
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プロ入り前

小学生から野球を始める。当時のポジションはキャッチャーであった。京都成章高等学校に入学後、ピッチャーにコンバートされる。3年生時に夏の京都府大会で準優勝し、プロのスカウトの注目を浴びた。高校時代の同級生に倉義和がいる。

1993年のドラフト横浜ベイスターズから3位指名を受けて入団(この年に横浜から指名を受けた6名の中で唯一の高校生であった)。背番号は56

横浜時代

1994年は高卒ルーキーながら一軍入りを果たす。同年4月29日のヤクルト戦で中継ぎとして登板し、わずか3球で初勝利を挙げる。

1997年オフにフロリダ教育リーグに参加してMLB挑戦を意識し始め、球団にその希望を伝える[1]

1998年はイースタンリーグで最優秀防御率のタイトルを獲得。オフに球団がMLB挑戦を了承したため、自由契約となった。MLB移籍に際してジム・マスターアレクシスを代理人とした。

レッドソックス時代

1998年12月にボストン・レッドソックスとマイナー契約を結ぶ。

1999年は傘下のAA級トレントン・サンダーで開幕を迎え、8連勝を記録して6月にAAA級ポータケット・レッドソックスに昇格。フューチャーズゲームの世界選抜に選出され、先発投手を務める。7月17日にメジャー契約を結び、19日のフロリダ・マーリンズ戦でメジャーデビューを果たしたが、以降2連敗を喫し25日にマイナーに降格。8月23日にメジャーに再昇格し、25日に再降格したものの、9月4日に再昇格しリリーフとして起用される。10月1日のボルチモア・オリオールズ戦で3回を無失点に抑え、MLB初勝利を挙げる。

2000年はマイナーで開幕を迎え、6月1日のシャーロット・ナイツ戦でインターナショナルリーグ史上48年ぶり3人目となる完全試合を達成。15日には2年連続でのフューチャーズゲーム選出を果たすが、17日には金善宇との衝突で5試合の出場停止を受けた。7月21日にメジャーに昇格。28日にはマイナーに降格したが、8月6日に再昇格し3連勝を記録。その後6連敗を喫したものの、防御率3.12を記録した。

2001年は背番号を18に変更し、開幕メジャー入りを果たした。移籍してきた野茂英雄と共に先発ローテーション入りし2連勝。4月はリーグ4位の防御率2.28を記録。5月10日のシアトル・マリナーズ戦ではイチローと初対決し、最速93mph(約150km/h)を記録したが左前安打を浴びた。デビッド・コーンのDLからの復帰に伴い13日にマイナーに降格。6月7日に再昇格するが登板はなく10日に再降格し、29日に再昇格。

エクスポズ/ナショナルズ時代

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2005年4月30日

2001年7月31日にウーゲット・ウービナとのトレードでリッチ・ランドルズと共にモントリオール・エクスポズに移籍。伊良部秀輝吉井理人とチームメイトとなる。移籍後は7連敗を喫したが、8月30日のアトランタ・ブレーブス戦で5回2/3を2失点に抑え移籍後初勝利。最後の3試合は17回2/3で防御率2.55、WHIP1.07と安定した投球を見せた。

2002年3月5日にエクスポズと再契約。4月28日のセントルイス・カージナルス戦ではマット・モリスに投げ勝ち、以降4連勝を記録。前半戦を含む8勝4敗、防御率3.19、WHIP1.27の成績で折り返す。9月7日のブレーブス戦ではアンドリュー・ジョーンズへの死球が故意死球とみなされ退場処分と6試合の出場停止を受けたが、後半戦も5勝4敗、防御率3.16、WHIP1.20と安定した投球を続け、チーム最多の13勝を記録。オフには日米野球のMLB選抜に選出された。「まっすぐにこだわった」という投球を見せたが、中村紀洋に3点本塁打を浴びるなど3回1/3を7失点とKOされた。

2003年7月9日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では7回までノーヒットノーランの好投を続けるも、7回にプラシド・ポランコが空振りした際にバットが内野スタンドにすっぽ抜ける。観客がバットを返さなかったため、ポランコは替えたバットで打ち、三塁手のエドワーズ・グスマンのミスを誘い初安打となった。後半戦は15試合の登板で3勝3敗、防御率3.76、WHIP1.41の投球で2年連続10勝を記録し、クオリティ・スタートはリーグ4位の22を記録した。オフには1年233万7500ドルで再契約。

2004年3月23日に滋賀県草津市でNPO法人Field of Dreams」を発足させた。レギュラーシーズンでは4月は5度の先発で全て敗戦という幸先の悪いスタートを切ったが、5月は3勝0敗で防御率も1点台と調子を取り戻し、通算でも防御率3.01、WHIP1.35と安定した投球を続けていたが、6月10日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でカルロス・ベルトランのピッチャーライナーを腕に受けて骨折し故障者リスト入り。9月15日のフロリダ・マーリンズ戦で復帰した。この年は得点援護率が2.87と低かったこともあり、15先発でわずか3勝に終わった。オフには1年275万ドルで再契約。

2005年はチームが本拠地移転によってワシントン・ナショナルズと名称を変更。開幕から先発で起用されたが、前年までの通算で2.31だった与四球率が5月上旬までで5.70と制球が乱れ先発を外される。6月4日のフロリダ・マーリンズ戦では降板を要求する監督のフランク・ロビンソンに背を向けたため罰金1000ドルを科せられる。

ブルワーズ時代

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2006年8月10日

2005年6月10日にトレードによりミルウォーキー・ブルワーズに移籍。6月14日のタンパベイ・デビルレイズ戦で移籍後初先発し、自身初の完封勝利を挙げる。前半戦を5勝4敗、防御率3.62、WHIP1.32で折り返し、9月5日のシンシナティ・レッズ戦で10勝に到達。与四球率も移籍後は1.99と復調した。

2006年2月の前半二週間、毎日放送のラジオ番組『月極ラジオ』で、メインパーソナリティを担当。15日にNPB/MLB合わせてこの年の日本人投手最高年俸となる1年453万ドルでブルワーズと再契約。4月15日のニューヨーク・メッツ戦では7回5安打2失点に抑え、打撃でも4回にバスター打法で勝ち越し2点適時打を放ち勝利投手となる。25日のブレーブス戦で長谷川滋利を抜いて日本人メジャーリーガー史上2位となる通算46勝を挙げた。2勝1敗、防御率3.18、WHIP1.356と好投を続けていたが、5月1日のヒューストン・アストロズ戦で右肩の張りを訴え途中降板。病院にて回旋筋裂傷が判明し、故障者リスト入りする。7月18日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で復帰。8月24日のコロラド・ロッキーズ戦では6失点を喫するも、初めて左打席に立ち自ら4打点を記録し勝利。しかし、9月15日の走塁中に左太腿を痛めシーズンを終了した。

ブルージェイズ時代

2007年1月にトロント・ブルージェイズと1年150万ドル+最高150万ドルの出来高で契約。4月29日に野茂英雄に次いで日本人メジャーリーガー史上2人目となるメジャー通算50勝を達成する。しかし成績不振により、6月18日に解雇された。

カージナルス傘下時代

2007年6月19日にセントルイス・カージナルスとマイナー契約を結んだが、7月4日に解雇された。

マリナーズ傘下時代

2007年7月13日にシアトル・マリナーズとマイナー契約を結ぶ。8月5日に放出された。

ホワイトソックス傘下時代

2008年2月22日にシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約。傘下のAAA級シャーロット・ナイツでプレーし、8試合のリリーフ登板を含む28試合の登板で5勝11敗、防御率4.18、WHIP1.33の成績に終わり、メジャー昇格はなかった。

インディアンス時代

2008年12月6日にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結んだ。

2009年5月28日に2シーズンぶりにメジャーに昇格。5月30日のニューヨーク・ヤンキース戦に登板し、MLB通算1000投球回を達成した。結果としてこの2009年が大家のMLB在籍最終年となったが、この昇格により、大家は日本人選手では野茂に続き2人目のMLB在籍10年選手となり、引退後の選手年金を満額受給する資格を得た[注 1]。オフに自由契約となる。

メキシカンリーグ時代

2010年3月にリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルキンタナロー・タイガースに入団したが、わずか1週間で解雇となった。

横浜復帰

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横浜時代(2011年4月19日)、横浜スタジアムにて

4月7日に古巣の横浜ベイスターズと契約に合意し、12年ぶりにNPBに復帰。背番号は44。5月2日の東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)に先発で復帰登板し、6回1/3を投げ1失点の好投で勝利投手となった。NPBでは前述の初勝利である1994年4月29日のヤクルト戦以来16年(5847日)ぶりの勝利であり、これは遠山奬志の10年ぶりの勝利を抜くNPB最長ブランク記録である。シーズン成績では横浜が最下位を独走する中、チーム2位の7勝を記録した。

2011年は開幕から不調が続き、7試合に先発して6敗と1勝もあげることが出来なかった。9月27日に右肩のクリーニング手術を受けた。10月9日に球団から戦力外通告を受けた[3]。12月2日に自由契約公示された。

横浜退団後

2012年は所属先が見つからず、リハビリやトレーニングに費やす。

2013年1月、韓国の独立野球団高陽ワンダーズの春季キャンプに臨時インストラクターとして参加。その後4月8日、BCリーグ富山サンダーバーズに入団することで合意したことが発表された[4]。オフにメジャーリーグのトライアウトを受験し、12月16日に古巣・ブルージェイズとマイナー契約を結んだことが発表された[5]

2014年は古巣ブルージェイズのスプリングトレーニングに招待選手として参加するが、3月3日にマイナーに降格し[6]、22日に解雇された[7]。その後は独立リーグ・アトランティックリーグブリッジポート・ブルーフィッシュのスプリング・トレーニングに参加。4月23日にブリッジポートと契約したことが発表される[8]。5月6日のヨーク・レボリューション戦で9回を3安打5奪三振と好投し、移籍後初完封勝利を挙げた[9]。シーズン終了までブリッジポートに所属し、26試合の先発で7勝12敗、防御率5.15、WHIP1.67の成績を残す。

2015年3月9日にBCリーグの富山に復帰したが[10]、8月10日に戦力外となり、退団[11]。その後、8月21日に同じBCリーグに所属する福島ホープスへ入団した[12]。なお福島入団時より、登録を両打ちから右打ちへ変更している。

2016年は福島で16試合に登板し7勝4敗、防御率2.82だった。オフの10月2日にMLBの公開トライアウトを受け[13]、12月15日にボルチモア・オリオールズとマイナー契約を結び、AAA級ノーフォーク・タイズに配属された[14]

2017年3月28日に解雇となった[15]。その後帰国し、現役続行に向けて調整を続けていたが、契約を結ぶ球団がなかったことから6月19日に現役引退を表明した[16]

現役引退後

2017年は自身が設立したField of Dreamsの傘下であり、従前よりゼネラルマネージャーを務める社会人野球クラブチームOBC高島のコーチに就任した[17]

同年11月より古巣である横浜DeNAベイスターズの二軍投手コーチを務め、2023年限りで退団した[18]

2024年11月13日、エクスポズ時代同僚だった吉井理人が監督を務める[19]千葉ロッテマリーンズのコーチに就任した[20]。15日に、役職はチーフ投手コーチ、背番号は89だと発表された[21]

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選手としての特徴

最速94mph(約151.2km/h[22])、平均87.8mph(約141.1km/h)のフォーシームツーシーム、平均86.1mph(約138.5km/h)のカットボール、平均79.6mph(約128.0km/h)のスプリッター、さらに平均82.5mph(約132.7km/h)のスライダー、平均72.8mph(約117.1km/h)のカーブを投げる。

2011年終わりごろに受けた手術で球威が低下[23]ナックルボールを投球の軸、および決め球にする投球スタイルに一変し、2013年富山サンダーバーズに入団するなど再起を図った[23]

2009年終了時のMLB通算打率は.138(33安打)。2004年には盗塁も記録している。

投球間隔がとても短いことで知られる。捕手がサインを出すと同時に、投球動作に入っている。

人物

MLBやマイナーを転々としてきたが、MLBでの成功・失敗について「よく成功とか失敗とか言われるが、じゃあ何が成功で、何が失敗なのか。僕はアメリカに来て野球が楽しいと思えるだけで、成功だと思うんです。僕らは見せてナンボの世界にいますから、成績を残せなければ失敗と言われるのも仕方がないと思うが、やりたいことをやるのが一番だと思います。先発でもリリーフでも、マイナーでもメジャーでも、野球をやれるだけで僕は十分、幸せなんです」と語っている[24]

エクスポズ投手時代に設立した草津シニア(「Field of Dreams」の中学生向けベースボールチーム)からは、NPBの選手として京山将弥を輩出している。

京山が近江高校を経てDeNAへ入団した2017年の秋季キャンプからは、大家もDeNAの二軍投手コーチに就任。就任後は、一軍の経験がなかった京山にカットボールの投げ方を教えることによって翌2018年の飛躍につなげている[25]

メジャー在籍中の2003年、「野球以外でも自分を高めたい」と立命館大学へ入学。シーズンオフにはトレーニングを行いつつ大学へ通った。[26]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...
  • MON(モントリオール・エクスポズ)は、2005年にWSH(ワシントン・ナショナルズ)に球団名を変更

年度別守備成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

NPB

初記録
投手記録
打撃記録

独立リーグでの投手成績

さらに見る 年度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 56(1994年 - 1998年)
  • 53(1999年 - 2000年)
  • 18(2001年 - 同年途中、2007年)
  • 24(2001年途中 - 2003年)
  • 34(2004年 - 2005年途中、2013年、2015年 - 同年途中)
  • 55(2005年途中 - 2006年)
  • 16(2009年)
  • 44(2010年途中 - 2011年、2015年途中 - 2016年)
  • 78(2018年 - 2023年)
  • 89(2025年 - )
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関連情報

著書

関連書籍

脚注

関連項目

外部リンク

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