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常田富士男

日本の俳優 ウィキペディアから

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常田 富士男(ときた ふじお、1937年昭和12年〉1月30日[1] - 2018年平成30年〉7月18日[2])は、日本俳優声優歌手、ナレーター。本名同じ[1]。個性派の怪優として知られた。また歌手として、ビートルズを題材としたカルトGSのレコードも発表している。長男に俳優の倉崎青児がいる[3][4]

概要 ときた ふじお 常田 富士男, 本名 ...
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経歴

長野県下高井郡上木島村(現・木島平村)で生まれ、定職を持たぬ父とともに東京浅草横浜静岡九州を転々とし[5]、小学3年時より熊本県阿蘇郡南小国町で育つ[6]。中学を卒業すると親元を離れ、熊本県立済々黌高等学校定時制に通う[5]

高校卒業後、上京して劇団民藝養成所へ入所[5]。養成所を出た後は、劇団員にならず、1960年米倉斉加年岡村春彦らと劇団青年劇場を結成[5]黒澤明監督作品『天国と地獄』(1963年)と『赤ひげ』(1965年)に出演。

バス通り裏』や『巨泉・前武のゲバゲバ90分!!』への出演で知られた。また、1970年には「私のビートルズ」を発表している[7]。同曲は深夜放送を中心としたラジオでもオンエアされた。1972年にはドラマ『木枯し紋次郎』にゲスト出演し、中村敦夫と共演している[8]。また1973年には映画『股旅』で萩原健一と共演した。

1975年から1994年までは『まんが日本昔ばなし』で語りとすべての登場人物の声を市原悦子と2人のみで長年に亘って演じた[注 1]

1977年、「まごころの政治」を掲げて保谷市長選に立候補し、中村敦夫らの応援を受けるが、革新統一候補である都丸哲也に敗れ落選した。

1986年、第4回日本アニメ大賞声優部門特別演技賞を受賞。1995年、第30回モービル児童文化賞を受賞。

2018年7月18日午後頃、脳内出血のため東京都内の病院で死去。81歳没。関係者によれば、亡くなる数か月前から入院療養していたとのことである[2][9]

市川崑に重用され、10本以上の作品に出演した。

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雑記

ムーンライダーズの曲「ニットキャップマン」に名前が登場する。

出演

演劇

テレビドラマ

映画

テレビアニメ

劇場アニメ

人形劇

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ディスコグラフィ

シングル

  • 私のビートルズ(1970年) - 「私のビートルズ」を発表している[7]
  • 2001年生まれのフランケンシュタイン 「おはよう!こどもショー」内
  • ゴリラの一郎 花とさけ 「ソング・オブ・カリキュラマシーン」所収(1974年)
  • トッピンからげて逃げられて(1983年)

アルバム

  • 常田富士男 民話の世界(1997年、日本馬主連合会) - 朗読[14]

ラジオ

バラエティ・情報番組

鉄道車内放送

CM

テレビCM

注記がないCMはすべてナレーションのみ。顔出し出演のCMも混在する。

ほか

ラジオCM

  • トヨタ自動車
    • 「カローラ」(1976年)
  • 霊友会
    • 「常田富士男のいんなあ・とりっぷ ラジオエッセイ」(1992年)
  • 磯部ガーデン
    • 「ホテル磯部ガーデン」(1995年)
  • 塚本産業
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備考

常田は1990年にTBS系列で放送したスペシャル番組『プロ野球かわら版』(司会:上岡龍太郎)のコーナー、「嗚呼いにしえの名作珍プレー」でナレーションを務め、プロ野球選手(監督・コーチを含む)を下記などに例えた。同コーナーは昔ばなしのようなナレーション[注 7]となっていたため、常田がナレーションを務めたテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』(MBS / TBS系列)のオープニングテーマ、「にっぽん昔ばなし」も一部のシーンでBGMとして使用された[注 8]

常田の例え(ナレーションより。一部選手は省略)

上記の他、敬遠球のホームランを「玉手箱」(柏原純一#プロ入り後を参照)、金玉に打球が当たった内野手を「曲芸師」、センターゴロを「[注 12]、間抜けなプレーを「トリプルプレー」、他球場で同じようなシーンが起こったことを「隣村」、打球を見失った外野手を横目に三塁ベースを蹴って本塁へ走る走者を「飛脚」と表現した。

脚注

関連項目

外部リンク

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