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朴勍完
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朴 勍完(パク・キョンワン、朝鮮語: 박경완、1972年7月11日 - )は、韓国全羅北道全州市出身の元プロ野球選手、野球指導者。
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経歴
要約
視点
1991年、申告選手(現在の育成選手)としてドラフト外でサンバンウル・レイダースに入団。当初は1次ドラフトでの指名を受けて入団した、高校の同期で親友である金圓衡(キム・ウォンヒョン)のお陰で球団に拾われたと見られた。しかし、本人の重ねた努力の結果、1軍での出場を果たし、徐々に出場回数を増やした。
1994年102試合に出場し、サンバンウル・レイダースの正捕手に定着すると、強肩強打の捕手として名をはせ、盗塁阻止率リーグトップの.433を残した。だが親会社の経営不振により、1998年現代ユニコーンズへ金銭トレードされた。トレード額は当時史上最高であった9億ウォンだった。現代では2000年に韓国プロ野球史上初の4打席連続本塁打を含む40本塁打で本塁打王、レギュラーシーズンMVPを受賞し、チームの韓国シリーズ優勝に貢献した。
2002年オフFAを取得すると、1999年限りで資金難により解散となった古巣サンバンウルの選手が中心となって創設されたSKワイバーンズへと移籍した。2004年には34本塁打で自身2度目の本塁打王に輝いた。1994年から2008年まで15年連続で100試合以上に出場し続け、35歳を超えても不動の正捕手として、2007,08年のSKの韓国シリーズ2連覇に貢献した。
国内での実績に比べ、国際大会への出場は少なく、2000年シドニーオリンピックでは洪性炘(ホン・ソンフン)との併用もあり出番は少なかった。久しぶりに韓国代表に選ばれた2009年ワールド・ベースボール・クラシックでは、若手の姜珉鎬を差し置いて老練なリードで投手陣を支え、決勝進出に貢献した。だが2009年シーズンは、アキレス腱断絶で前半戦しか出場できず、チームも韓国シリーズ3連覇を逃した。2010年は正捕手の座に復帰し、SKを2年ぶりの公式戦優勝に導いた。2011年は、古傷のアキレス腱が再発し、長期離脱するほど不本意なシーズンになった。だが同僚だった金圓衡(2011年引退)と並んで、現役選手として実働21年と韓国プロ野球史上最長記録を更新した。2012年も1軍試合出場数がたった8試合と前年より減少したが、実働22年の韓国プロ野球史上最長記録を更新し続けた。2013年も1軍の試合数に出場し実働23年と最長記録を更新したが、この年も8試合の出場にとどまり、シーズン終了後に現役引退を表明。翌2014年は、SKの2軍監督に就任し指導者へ転身した。
2014年3月10日、現代ユニコーンズ、SKワイバーンズで現役時代につけていた背番号26が球団初の永久欠番に指定された。同年4月5日、文鶴野球場で引退と永久欠番を表彰するセレモニーが実施された。2014年10月、SKの育成総括、2015年10月、SKの一軍バッテリーコーチに転任。コーチとしての背番号は、永久欠番とは違う番号を着用している。
2020年6月25日、廉京燁監督が試合中に倒れその後も安静が必要で指揮が執れないため、暫定的にSKの監督代行となった。同年9月1日、廉京燁監督が復帰すると首席コーチに戻った。だが9月6日、廉京燁監督の健康状態が思わしくないと診察されたため、9月8日より2020年シーズンの残りの試合で再び監督代行を務めることになった[1]。2020年シーズン終了後にSKのコーチ職を辞任。
2023年よりLGツインズのコーチとして現場に復帰。
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プレースタイル
2010年、捕手として韓国プロ野球史上初の300本塁打を達成するなど長打力があった。
また2010年には個人通算最多死球(165個)の記録を更新したが、2017年に崔廷がさらに更新した。
強肩でホームを体を張って守るプレーが際立ち、リードも巧み。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- その他
背番号
- 80(1991年 - 1992年、2016年 - 2020年、2023年 - )
- 28(1993年 - 1997年)
- 26(1998年 - 2013年)
- 72(2014年)
脚注
関連項目
外部リンク
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