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洪性炘

大韓民国の野球選手 ウィキペディアから

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洪 性炘ホン・ソンフン: 홍성흔1976年10月21日 - )は、大韓民国江原道横城郡生まれ、ソウル特別市出身の元プロ野球選手指名打者外野手捕手[1][2]本貫南陽洪氏[3]。女優、タレントのホン・ファリ朝鮮語版は実娘。

概要 基本情報, 国籍 ...
概要 オリンピック, 男子 野球 ...
概要 ホン・ソンフン, 各種表記 ...
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経歴

要約
視点

第一次斗山時代

1999年に即戦力としての素質を見込まれ契約した。

するとルーキーイヤーから金泰亨陳甲龍李到炯などを押し出して絶対的な正捕手として活躍を続けた。その後はライバル捕手に姜仁權鄭鍾秀龍徳韓表成大蔡相秉崔承煥などが現れたが、正捕手のポジションを奪われることはなかった。

2006 ワールド・ベースボール・クラシック韓国代表にも選ばれた。

2006年2007年はチームの主将を務めた。

主将職を金東柱に奪われて迎えた2008年にはゴールデングラブ賞を受賞した[4]。同年オフ、FAロッテジャイアンツに移籍。彼の補償選手には李沅錫が選ばれた。

ロッテ時代

2009年は高打率で首位打者争いに加わり、自己最高のシーズンとなった。しかし公式戦最終戦のLG-ロッテ戦(9月25日)で、首位打者争いのライバルだった朴龍澤が所属するLG投手陣から4四球と徹底して勝負を避けられ、朴龍澤本人は試合に出場しなかった。このため打率2位で首位打者を逃し、この件に関してLGには非難が殺到した。

2010年は、キャンプで外野に挑戦するもあまり良い成績を残せず、登録上外野手だが昨年同様にDHでの試合出場に決まる。打撃フォームを改善した結果が奏し、前半戦終了(7月22日)の段階で22本塁打・97打点と昨年の成績(12本塁打・64打点)を超えた。本人はチームで3番打者で、4番李大浩・5番カリーム・ガルシアのクリーンナップの3人で前半戦で74本塁打・249打点を記録し、他球団の投手から昨年以上に警戒されるようになる。この飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍で、球宴投票で史上最多得票を獲得し、試合も2本塁打3打点とシーズン同様に好成績を残しMVPを受賞。因みに、移籍前・移籍後でそれぞれの球団でMVPを受賞したのは史上初だった。8月に入っても全くペースが落ちず、「2003年李承燁が記録したKBO最高打点の144打点を上回れる。」と期待されたが、8月15日起亜戦で尹錫珉から手の甲に死球を受け骨折し、登録抹消。抹消直後は残りシーズンは絶望的と言われていたが、積極的にリハビリを続け、9月17日に一軍復帰。シーズン通じて打率は前年を下回ったが、本塁打・打点はほぼ倍増。対照的に、ポストシーズンではかなり警戒され、あまり結果を残せなかった。

2011年からチームの主将を務める。

2012年オフ、2度目のFAで斗山に復帰した。彼の補償選手には金承會が選ばれた。1人の選手が2回FAを行使して移籍するのは金敏宰に続く2回目。

第二次斗山時代

2013年に復帰した。しかし復帰後の斗山は梁義智金宰煥崔在勳などがいたため捕手としての復帰は絶望的となり、指名打者に転向。

同年と2014年は個人3回目となるチームの主将を務めた。

2015年6月14日、蚕室野球場にて韓国プロ野球史上5人目となる個人通算2000本安打を達成。右打者では初だった。

2016年は金宰煥が指名打者に転向したことで出場の機会が激減。11月22日に現役引退を表明した。

2017年4月30日、蚕室野球場のロッテ-斗山戦で引退セレモニーが行われた。

引退後

引退後はアメリカ合衆国サンディエゴ・パドレス傘下のルーキーリーグのチームでコーチを務めた。コロナ禍以降は配信活動を行なっている[5]

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プレースタイル・人物

三振が少なく、堅実でパンチ力のある打力が武器。

肩も強かったが守備に不安があり、2008年からチーム事情により指名打者に転向。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 22 (1999年 - 2008年、2013年 - 2016年)
  • 49 (2009年 - 2012年)

タイトル・表彰

関連項目

脚注

外部リンク

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