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石黒忠悳

日本の陸軍軍医 ウィキペディアから

石黒忠悳
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石黒 忠悳(いしぐろ ただのり、弘化2年2月11日1845年3月18日) - 昭和16年(1941年4月26日)は、明治時代日本陸軍軍医日本赤十字社社長。茶人。草創期の軍医制度を確立した。爵位子爵

概要 石黒 忠悳(いしぐろ ただのり), 生誕 ...
概要 生年月日, 出生地 ...
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経歴

要約
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1888年プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と。1888年[3]。前列左より河本重次郎山根正次田口和美片山國嘉、石黑、隈川宗雄尾澤主一[4]。中列左から森林太郎武島務中濱東一郎、佐方潜蔵(のち侍医)、島田武次(のち宮城病院産科長)、谷口謙瀬川昌耆北里柴三郎江口襄[4]。後列左から濱田玄達加藤照麿北川乙治郎[4]

幼名は庸太郎(つねたろう)。父・平野順作良忠は幕府代官手代になり、奥州(福島県)の陣屋に務めているときに庸太郎が生まれた。1856年2月に元服して忠恕(ただのり)を名乗り、平野庸太郎忠恕と称したが、やがて忠徳、後に忠悳と改めた(悳は徳の古字)[5]。父母は早く亡くなり、天涯孤独となる。16歳のとき、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市)の石黒家の養子になった。私塾「石黒塾」を開き、松代の佐久間象山に会って感銘を受けた。中山道追分宿では志士大島誠夫と会い、親交を結んだ。江戸へ出て、幕府医学所を卒業後、医学所句読師となる。

幕府が倒れ医学所も解散し一時帰郷、潜伏していた時期に再び私塾である「石黒塾」を開き、近隣の子供たちに漢学や算数を教えた(その時の教え子に井上円了がいる)。再び東京へ戻り、医学所の後身である大学東校東京大学医学部の前身)に勤める。1871年、松本良順の勧めで兵部省に入り[6]、草創期の軍医となった。

佐賀の乱西南戦争に従軍。1887年9月に、ドイツバーデン国都カールスルーエで開催された第四回赤十字国際会議に政府委員として出席し、北里柴三郎森林太郎尾澤主一らと出逢う[7]。1890年、陸軍軍医総監に昇進するとともに、陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長(陸軍軍医・序列第一位)に就任した。日清戦争のとき、医務局長として大本営陸軍部の野戦衛生長官をつとめた。日清戦争では脚気惨害の責任が指摘されている(詳細は、日清戦争での陸軍脚気大流行を参照のこと)。戦後、台湾での脚気惨害を知る高島鞆之助陸軍大臣に就任すると、軍医制度を確立した功労者でありながら、1897年に医務局長を辞任した(事実上の引責辞任)[8]

長州閥のトップ山縣有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと懇意で、その後も陸軍軍医部(後年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。1901年4月17日、予備役に編入[9]。1907年4月1日、後備役[10]、1912年退官。

茶人としても知られ、况斎・况翁の号がある。1898年(明治31年)、松浦詮(心月庵)が在京の華族、知名士等と設立した輪番茶事グループ「和敬会」の会員となる。会員は、青地幾次郎(湛海)・伊藤雋吉(宗幽)伊東祐麿(玄遠)・岩見鑑造(葎叟)・岡崎惟素(淵冲)・金澤三右衛門(蒼夫)・戸塚文海(市隠)東胤城(素雲)東久世通禧(古帆)久松勝成(忍叟)・松浦恒(無塵)・三田葆光(櫨園)・三井高弘(松籟)安田善次郎(松翁)の以上16人(後に益田孝(鈍翁)高橋義雄(箒庵)が入会)で、世に「十六羅漢」と呼ばれた。

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石黒忠悳が「陸軍軍医総監(中将相当)」に任命された際の辞令書(明治30年4月8日)

後に貴族院勅選議員、日本赤十字社の第4代社長などをつとめた。1895年に男爵、1920年に子爵となった。1941年、老衰のため死去[11]。没後に石黒家は襲爵手続を行わず、同年10月に華族栄典を喪失した[12]

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家族

長男の石黒忠篤は東京帝国大学卒業後、農商務省に入り、穂積陳重の次女・光子と結婚、太平洋戦争終戦時の農商大臣をつとめた。

その他

  • 後藤新平の才能を見出し、愛知県病院長から内務省衛生局への採用を後押しした。そして相馬事件で後藤が衛生局長を非職となり、失脚しても長与専斎と異なり後藤を見捨てず、その後ろ盾となり、日清戦争の検疫事業を後藤に担当させることを陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に提案した。検疫事業の成果により後藤は内務省衛生局長に復職し、また児玉に認められたことが、児玉台湾総督の下で後藤が台湾総督府民政長官に起用されるきっかけとなった[13]
  • 文学研究者には森鴎外の上官として、よく知られている(両者の確執が論じられることもある)。
  • 大倉喜八郎とは古くから交遊があった。大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に参加し、理事兼督長(現在の理事長兼校長)をつとめた。
  • 日比谷公園の開設に関わった。安寧健康上の設計を林学博士の本多静六から依頼され、洋風の公園となった。
  • 医師をめざして東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業した荻野吟子を、典薬寮出身で侍医高階経徳が経営する私立医学校・好寿院に紹介した。その後、それまで女性に開かれていなかった医術開業試験を受験できるよう内務省衛生局長であった長与専斎に紹介し、さらにみずから女医の必要性を長与に訴える等、荻野のために尽力した。のちに荻野吟子は近代日本における最初の女性の医師となった。

栄典

位階
爵位
勲章等
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外国勲章等佩用允許
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著書

石黒の懐古談を坪谷水哉らが編さんした。文庫版は小松宮彰仁親王(日本赤十字社初代総裁)、乃木希典などに関する記事(全体の7分の1弱)や、漢詩・図版が削除されている。

脚注

参考文献

関連人物

外部リンク

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