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本多静六

日本の林学者 ウィキペディアから

本多静六
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本多 静六(ほんだ せいろく、慶応2年7月2日1866年8月11日[1] - 昭和27年(1952年1月29日[1])は、日本林学者造園家株式投資家。日本の「公園の父」といわれる[2]。旧名、折原静六

概要 人物情報, 別名 ...

東京帝国大学農科大学教授となり、「月給4分の1天引き貯金」を元手にした投資で富を築き、定年退官とともに全財産を寄付した[3]。孫に光触媒研究の本多健一がいる。

経歴

武蔵国埼玉郡河原井村(現埼玉県久喜市菖蒲町河原井)に[1]折原家の第6子として生まれた。東京山林学校に入学するまでのあいだ河原井村で少年時代を過ごした。当時の河原井村は、戸数25軒ほどの小さな村だったが、中でも折原家は代々名主役を務める裕福な農家だった[4]。ところが9歳の時に父親が急死する[1]と同時に多額の借金が家に舞い込み、今までとは違った苦しい生活を強いられるようになった。

しかしそれでも向学心は衰えることなく、14歳の年、志を立てて島村泰(元岩槻藩塾長)のもとに書生として住み込み[5]、農閑期の半年は上京し勉学に努め、農繁期の半年は帰省して農作業や米搗つきに励むという変則的な生活を3年間繰り返した[5]

明治17年(1884年)3月、東京同人学校(後に東京農林学校から帝国大学農科大学)に入学した[5]。卒業時には首席となり[4][5]、銀時計が授けられた[5]。卒業1年前の明治22年(1889年)5月、元彰義隊隊長本多敏三郎の娘・銓子と結婚し婿養子となった[5]

東京農林学校(現在の東京大学農学部)を卒業[6]とともに、林学を学ぶため帝政ドイツ留学した[5]。当初はドレスデン郊外にあるターラントの山林学校(現在はドレスデン工科大学林学部)で半年学び、その後ミュンヘン大学へ転入、さらに1年半学究に努めた[5]ドクトル学位(経済学)を取得後、欧米を視察して帰国[5]。母校の東京農林学校の助教授教授を務めた。

日比谷公園を皮切りに、北海道大沼公園[4]福島県鶴ヶ城公園埼玉県羊山公園東京都明治神宮[4]長野県臥竜公園石川県卯辰山公園福岡県大濠公園[4]ほか、設計・改良に携わった公園は多数[5]東京山林学校卒業後に留学したドイツをはじめ、海外に十数回視察に赴き、明治期以降の日本の大規模公園の開設・修正に携わった[5]

東京駅丸の内口駅前広場の設計も行っている[7]ほか、行幸通りも本多が担当し、その後歴代の弟子達が改良設計に携わる。本郷高徳白沢保美関口鍈太郎上原敬二永見健一中島卯三郎田村剛は東大時代の弟子である。また、後藤新平とはドイツ留学時代に知り合い[8]、その後も親交を続けた[8]。後藤から関東大震災からの復興の原案を依頼された際[1]、2昼夜不眠不休で素案を作成した[9]

また、昭和3年(1928年)当時の比企郡菅谷村(現、埼玉県比企郡嵐山町)にある現嵐山渓谷周辺を訪れた際、風景が京都の嵐山(あらしやま)によく似ていることから、武蔵嵐山(むさしらんざん)と命名した[10]。のちに同地周辺の駅名(東武東上線、菅谷駅・現武蔵嵐山駅)や自治体名(比企郡菅谷村)は、町制施行に際して嵐山町(らんざんまち)と改称している[10]。墓所は青山霊園

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人物像

幼少時に父親を亡くした経験とドイツ留学でのルヨ・ブレンターノ教授の教えから、勤倹貯蓄を処世訓とした。奈良県・吉野の土倉庄三郎の書生をしながら直接林業を学び、後に日本で最初の林学博士兼同人作家となった。[要出典]日々1ページ原稿を書くことを常としたため、376冊に及ぶ著作がある[5]

ドイツから帰国後、給料の4分の1を貯金する「4分の1天引き貯金」を開始し[1][11]、貯金を株や公共事業などに投資して多額の資産を形成した[1]投資家として巨万の富を築いたが、退官を機に匿名でほぼすべてを教育、公共の関係機関に寄付したことでも知られる[12]。ただし、本多静六を称えて地元に記念碑が作られた際には、関係各位に申し訳ないことと恥ずかしさから、息子を代理で出席させている。

数多くの処世訓を残し、「経済の自立なくして自己の確立はない」「職業の道楽化」「見栄を捨て生活を合理化する」などの処世訓を残した[1]

久喜市では本多静六博士顕彰事業を行っている[13]。1992年、生誕地に近い国道122号線沿い(当時)に本多静六生誕地記念園が完成し、1995年には記念園が埼玉県内で初の「道のオアシス」となった[14]。2000年、菖蒲町生涯学習文化センター内に本多静六記念室が完成した。2013年、没後60年記念事業として、本多静六記念室を久喜市菖蒲総合支所(現・菖蒲行政センター)内に移転し、本多静六記念館と改称した[2]

2002年、千葉県野田市郷土博物館所蔵の「染谷家文書」から川間小学校の設計に深く関わったことが明らかになった[15]

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略年譜

栄典

位階
勲章等

主な公園設計と風景策

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著書

DVD

係累

本多静六は三男四女の子沢山であった[25]。次女の美祢子は3歳、次男の武は5歳、三男の勝は19歳で早世[25]。「祖父は学業成績優秀なことを大切に考え、娘の婿にすべて成績一位の者を選んだ」(三浦道義)[26]

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その他

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首かけイチョウ(日比谷公園)
  • 首かけイチョウ - 道路拡張により伐採されることになった日比谷見附のイチョウの大木[29]。当時移植は不可能という声が多かったなかで、「自分の首にかけても」と日比谷公園への移植を実行し、成功させた[29]。推定樹齢400年。日比谷公園松本楼の脇。
  • 本多静六博士育英奨学金 - 埼玉県に寄贈した山林に基づく奨学金制度[30]。1954年から貸与を行っている[30]
  • 鉄道防風林 - 東北・北海道の鉄道を雪から守るための防雪林を作ることを提案したことでも知られる[要出典]
  • 赤松亡国論 - 1900年(明治33年)に「我国地方ノ衰弱ト赤松」という題名で発表した論文[31]。林学者の生態学的研究が林業に応用された最初の事例とされる[31]。アカマツの跋扈する森林の処方対策について述べている。同論文は高山樗牛によって「赤松亡国論」と呼称され、この呼称を本多自身が講演等でしばしば用いたため、「赤松亡国論の本多」と紹介されることになる。[要出典]
  • 由布院温泉発展策 - 1924年(大正13年)、由布院町(後の湯布院町、現在の由布市)の依頼で講演、ドイツのバーデン=バーデンを紹介し、町全体を森林公園に見立てる温泉町形成を促した[32]
  • 魯迅の短編「髪の話」中、登場人物が留学時代に読んだ新聞に本田博士へのインタビューが掲載されていた話が登場する[要出典]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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