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足利将軍一覧

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足利将軍一覧(あしかがしょうぐん いちらん) では、室町幕府(足利幕府)の主であった、征夷大将軍に任ぜられたものを扱う。

概要

初期は鎌倉殿と呼ばれ、3代将軍足利義満室町第に移って以降は室町殿とも呼ばれる。義満は太政大臣源氏長者に上り、以降の将軍も高い官位と格式を誇った。しかし義満と、子の6代将軍となった足利義教を除いて将軍権力は不安定であり、将軍襲撃や反乱・戦乱等の動揺が絶えなかった。初代将軍足利尊氏と10代将軍足利義材は、将軍職を追われた後に将軍職に復帰している。

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要約
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脚注

注釈

  1. 正平一統後の将軍解任から、後光厳天皇即位に伴う北朝の公武官位復旧までの、数ヵ月の失職期間を含む。
  2. 義量の死後、父の義持が室町殿として政務をとった。応永35年1月18日に義持が病没すると、青蓮院門跡であった義円が後継となったが、実際の任官は還俗元服を行った後になる。この間の政務は義円(義宣→義教)と管領畠山満家によって行われていた。
  3. 嘉吉の変で義教が横死した後、義勝が後継と定められたが、幼少であったために征夷大将軍任官まで時間を要した。この間の政務は有力守護大名の合議によって行われている
  4. 義勝の病死後、義政が後継と定められたが、幼少であったために征夷大将軍任官まで時間を要した。この間の政務は有力守護大名の合議によって行われている
  5. 義尚の病死後、義政が「東山殿」としてしばらく政務をとったが、延徳2年1月7日に義政が死去すると次期将軍義材の父足利義視大御所として政務をとった
  6. 明応の政変により義材が解官され、義澄が征夷大将軍に任ぜられるまでの期間。この期間は細川政元による京兆専制が行われていた。
  7. 義輝が殺害され、三好三人衆が擁立した義栄が将軍に任官するまでの期間。この時期京都に足利家の惣領となる人物は存在しなかった。
  8. 義栄の死去日について諸説あり、次の義昭の将軍宣下時における生死は不明である。
  9. 一般には元亀4年(1573年)の織田信長による京都追放の時点をもって幕府機構の解体(滅亡)と見なされているが、名目上は天正16年(1588年)に豊臣秀吉の仲介で准后に叙せられるまで征夷大将軍に在職していた(『公卿補任』)。

関連項目

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