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鬼頭政一
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鬼頭 政一(きとう まさいち、1920年2月9日 - 2008年11月4日[1])は、愛知県名古屋市野立町(現・熱田区)出身のプロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者。
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来歴・人物
旧制日大三中卒業後、1940年に名古屋軍へ入団[2]。同年のシーズン途中に兄・数雄の在籍していたライオン軍に移籍し、2年目の1941年8月1日の大洋戦(後楽園)で6回表に浅岡三郎から勝ち越しとなる初本塁打を放つ[3]。1942年まで在籍[4]し、その後は1943年に出征して輸送船で南方へ赴くはずであったが、直前に歩兵戦術を学ぶため国内に残った。鬼頭が所属していた部隊の船は、台湾沖で沈没している。復員後は八幡製鐵所でプレーしていたが、1950年に西鉄クリッパースでプロへ復帰[2]、1952年には近鉄パールスに移籍し、その年にリーグ4位の打率.320を記録[2]。1954年はリーグ9位の打率.292で、球団史上初のAクラス入りに貢献。内・外野こなせるユーティリティプレイヤーとして活躍し、1955年からはコーチを兼任。1956年には助監督を務め、1958年限りで現役を引退。
引退後はアマチュア球界に転じ、日南高校、三菱化成、柳川商業高校で監督を歴任した。日南高では野球部を初の甲子園に導き、1963年の春の選抜へ出場。1回戦で準優勝校・北海と接戦を演じたが、無念の敗退を喫した。
1968年に西鉄の一軍打撃コーチとしてプロ球界に復帰し、1969年途中からは黒い霧事件の責任を取って引退・辞任した中西太の後を受けて代理監督を務め、14勝7敗の成績を残した。その後も西鉄→太平洋に残り、二軍監督(1970年 - 1971年)、ヘッドコーチ(1972年 - 1974年)、スカウト部長(1975年)[5]を務めた。1976年には監督に就任[2]。元々、フロントはレオ・ドローチャーを招聘する予定が、種々の事情で来日しなくなり、急遽ヘッドコーチであった鬼頭に要請され引き受けることになった。球団名が「クラウンライターライオンズ」となった1977年に退任。2年連続最下位に終わったが、在任中は真弓明信・吉岡悟・鈴木治彦・若菜嘉晴・大田卓司・山村善則を積極的に起用。土井正博・白仁天・竹之内雅史・基満男らベテラン選手と対立しながらも、鬼頭は「走る野球」で若返りを断行していった。クラウン監督辞任後は球団役員(1978年)を務めたが、西武鉄道グループへの売却・所沢移転時に退団した。
クラウン退団後は太宰府市に在住し、球界の表舞台に登場することは少なかったが九州朝日放送・NHK福岡放送局解説者(1979年 - 1985年)として活動した。2001年より鬼頭の長男の母校である九州大学のテクニカルアドバイザーを引き受け、地元の大学球界の発展にも尽力した。
2008年11月4日に肝臓ガンのため死去。88歳没。
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詳細情報
年度別打撃成績
- ライオン(ライオン軍)は、1941年に朝日(朝日軍)に球団名を変更
年度別監督成績
背番号
- 12(1940年)
- 15(1940年 - 1942年)
- 7(1950年 - 1951年)
- 5(1952年 - 1958年)
- 45(1968年 - 1969年)
- 70(1970年 - 1974年、1976年 - 1977年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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