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山村善則
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山村 善則(やまむら よしのり、1955年4月11日[1] - )は、大阪府和泉市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)[1]・コーチ。
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経歴
プロ入り前
大鉄高校では3年時の1973年に夏の甲子園大阪府予選で準々決勝へ進出するが、エース有田二三男を擁する北陽高に敗退。同年のドラフト1位で太平洋クラブライオンズへ入団[1]。「有藤通世2世」という評価を受けていた。
現役時代
1975年5月18日の南海戦(大阪)に江藤慎一選手兼任監督の代走で初出場。同年5月30日のロッテ戦(川崎)では木樽正明から初安打・初本塁打を放ち、直後の6月1日には成田文男から2打席連続本塁打を記録。
1976年からは退団したドン・ビュフォードに代わってレギュラー三塁手となり、同年は112試合に出場。
1979年には五番打者としても起用され、規定打席(打率.269、32位)にも到達するが、守備に問題があり、レギュラー三塁手を務めた1976年、1978~79年の3シーズンでの失策数はそれぞれ、31、25、27個だった。
1980年はテーラー・ダンカンが入団したため、左翼手にコンバートされるが、打撃面で低迷し、出場機会が減少する。
1981年は打棒が復活し、打率.301を記録するが、テリー・ウィットフィールドの入団もあってレギュラーには届かなかった。
1982年のキャンプイン直前、片平晋作・黒田正宏との交換トレードで、山下律夫と共に南海ホークスへ移籍。
1983年にはレギュラー左翼手として108試合に出場し、打率.294の好成績を残す。
引退後
引退後もコーチで残留。2003年から2軍打撃コーチになったが、若手が伸び悩み、2011年からは3軍打撃コーチ。2012年に解任された。
2013年からは球団職員となり、編成・育成部国内担当に転身。
2017年現在、編成育成部スカウト室においてプロスカウトを担当[2]。NPB AWARDS2024では球団功労賞を受賞した[3]。2024年限りで退団[4]。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更
- 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更
記録
- 初記録
- 初出場:1975年5月18日、対南海ホークス前期6回戦(大阪スタヂアム)、9回表に江藤慎一の代走で出場
- 初打席・初安打・初本塁打・初打点:1975年5月30日、対ロッテオリオンズ前期10回戦(川崎球場)、8回表に楠城徹の代打で出場、木樽正明からソロ ※史上10人目の初打席本塁打
- 初先発出場:1975年6月5日、対阪急ブレーブス前期12回戦(平和台球場)、7番・三塁手で先発出場
- 節目の記録
- 1000試合出場:1986年10月8日、対日本ハムファイターズ26回戦(大阪スタヂアム)、7番・三塁手で先発出場 ※史上267人目
- その他の記録
- 初打席から2打席連続本塁打:1975年6月1日、対ロッテオリオンズ前期13回戦(川崎球場)、8回表に成田文男からソロ ※史上初
背番号
- 33 (1974年 - 1975年)
- 8 (1976年 - 1977年)
- 5 (1978年 - 1989年)
- 75 (1990年 - 1997年、2005年 - 2012年)
- 85 (1998年 - 2002年)
- 77 (2003年 - 2004年)
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脚注
関連項目
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