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吉田 義昭(よしだ よしあき、1932年1月8日 - 1989年5月9日)は、日本の脚本家、劇作家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。初期の別名に吉田 貴彰(よしだ たかあき)がある[4][5][9][13]。日本脚本家連盟信託者[14]。『山ねずみロッキーチャック』、『アルプスの少女ハイジ』、『フランダースの犬』等のテレビアニメーションの脚本のメイン作家として知られる[1][8][12]。
よしだ よしあき 吉田 義昭 | |||||
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別名義 | 吉田 貴彰 (よしだ たかあき) | ||||
生年月日 | 1932年1月8日 | ||||
没年月日 | 1989年5月9日(57歳没) | ||||
出生地 | 日本 青森県青森市 | ||||
死没地 | 日本 埼玉県所沢市 | ||||
職業 | 脚本家、劇作家 | ||||
ジャンル | 劇場用映画(現代劇、成人映画)、テレビ映画(時代劇・現代劇、テレビアニメ)、テレビ放送劇、演劇(ミュージカル) | ||||
活動期間 | 1959年 - 1987年 | ||||
所属劇団 | いずみたくフォーリーズ | ||||
主な作品 | |||||
映画 『日本拷問刑罰史』 『あばずれ』 テレビ映画 『伝七捕物帳』 『新五捕物帳』 テレビアニメ 『山ねずみロッキーチャック』 『アルプスの少女ハイジ』 『フランダースの犬』 『森のトントたち』 演劇 『Tomorrow 明日へのいのち』 『赤い椿の物語』 | |||||
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日本映画データベース等で混同されている[4][9]、同時代に活動した脚本家の吉田喜昭(1937年 - 2001年)は同音異字の別人[1][14][15]。また、第20回小野十三郎賞(2018年)を受賞した詩人の吉田義昭も別人[16]。
1932年(昭和7年)1月8日、青森県青森市に生まれる[1]。
1950年(昭和25年)3月、青森県立青森高等学校を卒業、満20歳を迎えた1952年(昭和27年)に東京に移る[1]。松竹大船撮影所の助監督会がシナリオを募集、これに応募して家城巳代治に認められる[1]。木下惠介のいわゆる「木下学校」門下の松山善三に師事した[1]。確認できるもっとも早い時期の仕事は、1959年(昭和34年)10月8日にフジテレビジョンで放映を開始した松竹製作のテレビ映画『駅の伝言板』であり、そのうち7話を魚住大二と共同で脚本執筆している。1961年(昭和36年)7月5日にTBSテレビで放映を開始した『純愛シリーズ』でも数話を手がけており[12]、なかでも村木良彦(1935年 - 2008年)が演出した『青春』(第103回)が知られており、同作の野心的斬新さはのちに今野勉(1936年 - )が著書『テレビの青春』で吉田の書いたセリフを引用、特筆している[17][18]。
1964年(昭和39年)9月9日にフジテレビジョンで放映を開始した松竹製作の連続テレビ映画『結婚の設計』では、梶山季之の原作をもとに吉岡道夫(1933年 - )とともに脚本を手がけており、当時、日本シネマや国映を中心として独立系成人映画の脚本を手がけていた吉岡[19] 同様に、吉田も小森白が製作・監督した成人映画『日本拷問刑罰史』に脚本を提供、同作は同年10月27日に公開された[5][9]。1965年(昭和40年)2月に公開された『しゃぶりつくせ』(監督南部泰三)にも脚本を提供しており[20][21]、渡辺護の回想によれば、吉田の同作における「殺し屋の美学」がよかったという[21]。元俳優の斎藤邦唯(1929年 - )が同年4月に扇映画プロダクションを設立、映画製作を開始するにあたり、渡辺に成人映画を撮れる監督の紹介を依頼、渡辺はかつて師事した西條文喜(1921年 - 1988年)を推薦、吉田とともに脚本を準備している[22]。吉田と渡辺が準備した脚本の完成段階で西條が降板、急遽、渡辺が監督に起用され、同作は渡辺の監督第1作『あばずれ』として、同年6月に公開されている[9][22]。同作での吉田は「吉田貴彰」とクレジットされており[22][23]、以降同名で、『紅壺』(1965年10月公開)、『女の狂宴』(1966年2月公開)、『のたうち』(1966年5月17日公開)、『情夫と情婦』(1967年4月公開)と合計5作の渡辺の初期作品を手がけた[4][5][9][13][22]。1967年(昭和42年)9月26日に放映を開始した、放送作家の青島幸男が主演した連続テレビ映画『意地悪ばあさん』や、1970年(昭和45年)9月19日に放映されたテレビ映画『日本怪談劇場』第12回『怪談乳房の呪い』(監督松永利昭)にも脚本を提供している[8][12]。
1973年(昭和48年)1月7日に放映を開始した『山ねずみロッキーチャック』の脚本に参加、テレビアニメに進出した[8][12]。同年10月2日に放映を開始した『伝七捕物帳』にも12作の脚本を提供しており、時代劇のテレビ映画は吉田にとっては同作が最初の執筆である[8][12]。なかでも、1974年(昭和49年)1月6日に放映を開始した『アルプスの少女ハイジ』、ならびに1975年(昭和50年)1月5日に放映を開始した『フランダースの犬』では、いずれも初回から第6話までを切れ目なく執筆しており、同2作の初動のレールを敷く重要な役割を果たしており[8][12]、同2作は吉田の代表作とされる[1]。1977年(昭和52年)10月18日に放映を開始した『新五捕物帳』には、シリーズ後半から参加、19作を手がけた[8][12]。
芝居の台本、戯曲は以前から手がけていたが、1977年に作曲家のいずみたくが設立した劇団「いずみたくフォーリーズ」(現在のミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)に参加[1][2]、同年11月25日の同劇団第1回公演のために戯曲『悪魔になってみませんか』(演出キノトール)を書き下ろした[1][2][24]。以降、『Tomorrow 明日へのいのち』(演出増見利清、1979年初演)、『ザ・マジック』(演出坂上道之助、1980年初演)等の戯曲を同劇団に提供した[1][2]。1981年(昭和56年)からは、『東芝日曜劇場』における石井ふく子プロデュース作に多く起用されるようになる[12]。同年、恩師である松山善三が演出する人形劇のために戯曲『赤い椿の物語』を執筆しているが、同作も石井ふく子が『人間が好きドラマシリーズ』でのリメイクを企画、演出は松山善三が行い、1983年(昭和58年)9月29日に放送された[12]。同作の主演に抜擢された今泉陽子[12] が、同作の収録中であった同年8月26日に緑山スタジオで飛び降り自殺する事件が起きている[12][25]。1984年(昭和59年)10月5日から放映を開始した連続テレビアニメ映画『森のトントたち』ではシリーズ構成および脚本を手がけ[12]、同作は、文化庁こども向けテレビ用優秀映画作品賞を受賞した[1]。
『いのちのスケッチ 思いやり』(1987年)によれば、満53歳だった1985年(昭和60年)9月、食道癌が発見されて闘病を開始、食道切除の手術を行ったという[26]。同書は、吉田が東奥日報夕刊に連載した『日向ぼっこ』から50編を選び改題したもので、1987年(昭和62年)8月に刊行された[1][26]。1989年(平成元年)5月9日、食道癌のため、入院先の埼玉県所沢市にある防衛医科大学校病院で死去した[1]。満57歳没。
吉田が手がけたなかでも『アルプスの少女ハイジ』は、1993年(平成5年)に『アルプスの少女ハイジ アルムの山』『アルプスの少女ハイジ ハイジとクララ』の再編集版VHSビデオグラム、2006年(平成18年)3月に同じくDVDが発売される等[7][8]、定番的な評価を受けている。
劇場用映画に関しては、映画監督・渡辺護の初期脚本家として注目され、渡辺の監督第1作『あばずれ』が、2014年(平成26年)同年12月5日 - 同9日に神戸映画資料館で行われた「渡辺護 はじまりから、最後のおくりもの。」の特集上映で、同年に発見された16mmフィルム版上映用プリントで上映された[23]。渡辺の監督第2作『紅壺』は東京国立近代美術館フィルムセンターにも所蔵されており[5]、同年10月25日 - 同月31日にユーロスペースで行われた「渡辺護追悼 そして『たからぶね』の船出」の特集上映でデジタル上映が行われた[27]。
特筆以外、劇場用映画・テレビ映画はすべて「脚本」[4][5][6][7][8][9][10][11][12]、テレビ放送劇は「作」である[12]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、デジタル・ミーム等での所蔵状況も記した[5][28]。
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