Loading AI tools
日本のタレント、コメディアン (1947-) ウィキペディアから
せんだ みつお(1947年(昭和22年)7月29日 - )は、日本のタレント、コメディアン[1]。
テレビ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、DVDやBlu-rayなどでの販売や公式なネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。 |
駒澤大学仏教学部中退[1][注釈 1]、服部栄養専門学校卒業。調理師の免許を取得[3]。実息は俳優・せんだ雄太、実娘はタレント・せんだるか。
後述の『東芝ワイドワイドサンデー』の仕事の際に、ニッポン放送ディレクターの上野修が名付けたものである[5]。当初は漢字だったが、声優の千田光男がいることから、ひらがなにした[6]。
千田光男とは血縁関係はなく、名前の読みが同じだけの全くの別人だが、誤って千田のギャラがせんだに振り込まれるなどの出来事があり、互いに意識していた。
この2人は海外テレビドラマ『特捜刑事マイアミ・バイス』と、映画『ブルース・ブラザース』の吹替えで共演している。
過去には千田光雄やせんだ光雄、ムッシュ中野の芸名で活動していた時期もある[4]。2000年にはミレニアムにちなんで1年間限定で
父は王子製紙の技術者で、父の赴任先であった樺太(サハリン)で生まれた。18歳年上の兄が居る[8]。1948年(昭和23年)に父の故郷である岩手県北上市に引き揚げ、その後、父の転勤によって宮崎県日南市に移る[8]。小学校2年生の時に再び父の転勤により、東京都杉並区に移り住んだ[8]。
当時は、本人曰く「目立ちたがり屋な美少年」で、スカウトされて[2]小学校3年生の頃より「劇団杉の子」に所属し、子役として活躍していた。初舞台は轟夕起子主演の舞台『人形の家』で、主人公・ノラの長男役[9]。その他、子供服のモデルとして婦人雑誌などでも活動していたが、当時は役者になることは考えていなかった[2]ため、子役活動は約2年で辞める。
中学生時代の部活は野球部でセカンドのレギュラー、高校生時代の部活はバスケットボール部[9][10]。穂口雄右は中学の同期生で、同じクラスになったことはなかったが、家が近所で仲が良かった。また、田中清司は高校の同期生[11]。
高校時代に出会った菅原進[注釈 2][12][注釈 3][2]と仲良くなった。駒澤大学進学後に3歳年上の女性と恋愛関係になり、2年生の時に結婚を考えるようになった[2]。大学卒業まで待てず、結婚後の収入を考えて調理関係の仕事に就こうと大学を中退して調理師学校に通い始めた[2]。
また、同時期にしばらくの間、菅原進が結成したアマチュアバンド時代のビリーバンバンでコンガを叩いていたこともあった[1][注釈 4][注釈 5]。
せんだは上記の服部栄養専門学校に通いつつ、ムッシュ中野という芸名でビリーバンバンの付き人兼司会を務めることとなったが、その仕事が他のバンドにも広がり、アンドレカンドレ(井上陽水)、吉田拓郎などのコンサートの司会を務めた。しかし上記の交際女性が別の男性と結婚し、大きなショックを受けて何の目標もなくなってしまったという[2]。
菅原進がボイストレーニングに通っていた浜口庫之助のつてで、世志凡太の運転手や世志が加わっていたフランキー堺のバンドの巡業に加わるなどの仕事を経て、ビリーバンバンのコンサートに出演していたせんだを見ていた上野修にスカウトされる形で、上野がディレクターを務めていた、坂本九がメインパーソナリティーを務めるラジオ番組『東芝ワイドワイドサンデー』(ニッポン放送)のレポーターの仕事を得ることとなった[4][1]。後にせんだは菅原について、「僕が芸能界に入れたのは彼のおかげです。恩人だと思っています」と語っている[2]。
初のメイン司会番組は1969年(昭和44年)の『ワゴンでデート』(ニッポン放送)で、和田アキ子とのトーク番組だった。その後も『ラジオカウント』、『セイ!ヤング』、『ハローパーティー』など数多くのラジオ番組の司会者を務める。
1972年(昭和47年)10月にキャシー中島とテレビ番組『ぎんざNOW!』(TBS)の司会となり好視聴率を得たことで[注釈 6]、司会者として人気に火がついた[2]。
続いて1973年(昭和48年)10月に放送開始した全国ネットの『うわさのチャンネル』(日本テレビ)の司会を務めた。ユニークなキャラが視聴者にウケて人気と知名度が急上昇し、以後レギュラー番組が増えていった[2]。湯原昌幸と『せんみつ・湯原のドット30!』(TBS)で共演。絶妙なコンビで人気を博し、後に明星食品のラーメンのCMに共演する事になる[注釈 7]。
『うわさのチャンネル』のエンディングで「NHKに出たい」と書いたボードを持ちながらふざけて踊っていたことがあったが、そこから1977年にNHKのテレビドラマ『北上山系』の出演につながったというエピソードがある[13]。
1970年代半ば頃は、レギュラー番組が10本を超えるほどの人気ぶりで極めて多忙であり、無理なスケジュールで体調を崩した[2](次項参照)。
1978年(昭和53年)12月にロケ先で食べた牡蠣にあたり、病院で「過労を伴う肝炎」と診断された[2](尿管結石も併発していたとされる)。医師から「何より休養を要する」と告げられたため、仕事を全てキャンセルして入院生活を余儀なくされた[2]。半年間の休業後、折からの漫才ブームなどでレギュラー番組がすべてなくなるなど、急速に人気に陰りがでた。せんだ本人はこのことに関して、当時は動きの芸からしゃべりの芸への移行期であり、自分にはテンポがなかったためだと分析している[14][注釈 8]。
1980年代以降も芸能活動をし、テレビ出演などもこなしているものの、タレントとしての露出度は1970年代の全盛期には及ばない。全国メディアでは、旧知の和田アキ子らの番組にゲスト出演する程度に留まった。
お笑い系タレントとしての仕事は減ったが、一方でそれと入れ替わるように俳優としての活動に重点が置かれた[2]。1977年には映画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』では、主人公の両津役を演じた[2]。また、1981年のNHK大河ドラマ『おんな太閤記』では、豊臣秀吉の妹・あさひをめとった副田甚兵衛役を好演[2]。1984年には、NHKドラマ『新・夢千代日記』で中国残留孤児の王永春役で迫真の演技をして絶賛された[2]。コメディーだけでなくシリアスな演技もできることが評価されたことから、これまでに他のNHKの大河ドラマや朝の連続テレビ小説にも複数回出演している[2]。
さらに声優としても、『ゴールデン洋画劇場』での『ブルース・ブラザース』テレビ初放送時には、ジョン・ベルーシの吹き替えを担当。小野ヤスシが担当したダン・エイクロイドとの絶妙なやり取りを見せた[注釈 9]。
近年は「ウケない金ない仕事がない」の「三ない」や、自称「大スター」等の自虐ネタを持ち味としている。
2001年には、当時リバイバルヒットしていた「明日があるさ」に対抗して「明日がないさ」という楽曲を発表。歌詞も、そっくりそのままネガティブにしており、「明日がない 明日がない 明日がないさ」と歌っている[注釈 10]。
文化放送の『吉田照美のやる気MANMAN!』(2007年終了)では、ゲストではなくリスナーとして投稿が採用されることがよくあった。
2017年10月から、TOKYO MX『ひるキュン!』の水曜レジェンドレポーターとして出演、地上波テレビでは十数年ぶりのレギュラー獲得を果たす。その他、イベント司会等の全国営業、2時間ドラマを中心とした主要脇役としても活躍している。
2021年7月には、ビリーバンバンの菅原進がカバーしたアニメソングがユニバーサルミュージックから配信開始するのに合わせ、インターネットに公開されたPV「ようこそジャパリパークへ」(連続テレビアニメーション『けものフレンズ』主題歌)に、ほいけんたとともに出演した[15]。
2007年1月にTBSナショナル劇場『浅草ふくまる旅館』でデビューした俳優のせんだ雄太は長男[1]。また長女のせんだるかも2009年にタレントとしてデビューしている。
両手を顔の横に上げ、それを前後に動かしながら「ナハッナハッ」と言うギャグや、「せんだ偉い!せんだ偉い!」などと自分で自分を持ち上げるギャグがある。その他、人名や地名を連呼するギャグを得意とする。現在でも「せんだみつおゲーム」(後述)として残っている。
「ウルトラマンは『シュワッチ』の他に『ナハッ』って言ってたんだよ」と湯原が言っていたことがこのギャグが出来たきっかけでもあり、「せんだ偉い!」も元々は湯原が「湯原偉い!」と言っていたもの[17]。一方で「ナハッナハッ」のきっかけについては、湯原は別のインタビューで以下のようにも証言している。湯原がせんだの番組にゲスト出演した際、普通に登場するのではつまらないからと、両手を振って「ナハハハ!」とスタジオに入ったことがあった[2]。すると、その1週間後くらいに放送された深夜ラジオのオープニングで、せんだがいきなり『ナハ、ナハ!』とギャグをやり始め、放送を聞いた湯原は「おっ、パクりやがったな(笑)」と思ったとのこと[2]。
村上ファンドの創設者である村上世彰はせんだの熱烈なファンで、高校時代はせんだみつおの弟子になることが夢であり、「せんだの人生には偽りがない」という文章を文集に残している[18]。
世志凡太の付き人になった後の初めての巡業でフランキー堺と一緒になった際、コメディーの芝居をやりたいと話した。すると堺から「芝居でコメディーな演技をするには、単に笑わせるだけじゃダメだ。コメディーをやりながらシリアスな芝居もやりなさい」と助言された[2]。
話術、気配り、礼儀正しさ、正義感などもあって、交友関係が広い[2]。
湯原昌幸からはせんだの考え方について、「テレビなどで見せる顔とは180度違うもう一つの顔がありますよ。真面目に物事を考え、世の中の不正に怒ったり政治に不満を抱いたり。非常にグローバルな視点を持っている男ですよ」と評されている[2]。
学生時代に一時ジャーナリストに憧れたこともあったが、勉強嫌いなため諦めたという。芸能界入りした後もジャーナリズムのような気持ちは持っており、1985年6月6日の朝日新聞の投書欄に《(元人気女性アイドルの)引退後の生活まで乱す権利はどこに(東京都/せんだ・みつお テレビタレント 37歳)》などと送って[注釈 11]掲載されたことがある[2]。
本人は、「(せんだはタレントや司会者として人気となったが、1970年代後半に現れた)たけし君、タモリさん、所ジョージ君、さんま君…数え切れないくらいの芸人たちがどんどん僕を飛び越えていった。私は芸能界の元祖“跳び箱タレント”です」と自己評価している[2]。
俳優の萬屋錦之介とは数多く時代劇で共演し、萬屋が1982年に大病を患って入院した時も見舞いに訪れた。また、せんだが「トラック野郎」シリーズに出ることになった時、萬屋から「監督の鈴木則文さんにこれを持って行きなさい」と一升瓶を渡された。そこには「萬屋です。せんだみつおをよろしくお願いします」という手紙が添えられており、大先輩の心遣いにとても感激したとのこと[19]。
森繁久彌とは『水戸黄門』などのドラマで共演し、彼の生前は家が近所で遊びに行ったこともある[注釈 13]。
長嶋茂雄とは、過去に月に3回一緒にゴルフに行っていた時期がある[2]。
司会を担当した『ぎんざNOW!』には、矢沢永吉が所属したキャロルが何度も出演していた。楽屋でメンバーたちがポマードを塗っていた時、せんだが矢沢に「お前がリーダーか?ポマードが臭いんだよ。便所で塗ってこい!」と注意したことがある[注釈 14]。
ラジオの深夜番組『燃えよせんみつ足かけ二日大進撃』に、変なコントを何本も書いて送ってくる1人のリスナーがいた。番組側が「発想が面白そうだから」と番組に呼んでやってきたのが、当時学生で放送作家志望の秋元康だった。以来その収録スタジオで、せんだは「秋元、弁当買ってこい!」などとアゴで使っていたが、その後せんだの黄金期は終わり、秋元は大物プロデューサーになった[注釈 15]。
菅原進がとある歌番組で石野真子と共演したことがきっかけで、せんだも彼女と知り合い、以後女優業をする彼女に時々助言をしたり、プライベートで一緒にカラオケに行くなど交流が続いている[注釈 16]。
合コンなど宴会の余興で行われるゲームの一つ。参加者は車座となり、最初にある人間が「せんだ」といいながら誰か他の参加者を指差す。するとその指を指された人間は「みつお」と言いながら、また参加者の誰かを指差す。その後指をさされた人間の両隣の人間(あくまでも両隣の人間だけで、さされた当人はつられてはダメ)が「ナハッナハッ」のギャグを行うと1ターンが終了する。その後は「みつお」を言われた人間が最初の人間となり、以降だれかがミスをするまで繰り返す。
その応用版として、芸人とそのギャグや口癖を使った「○○[注釈 17]ゲーム」(○○はその芸人の名前)も存在し、宴会などで行われている。
せんだ自身は1996年頃、読売ジャイアンツの桑田真澄(当時)から、せんだみつおゲームが流行っていることを聞かされた[20]。さらに1997年に放送されたアコムの自動契約機「むじんくん」のCM(「パーティー篇」[20])で、チャント星人(セイン・カミュなどが演じていた)が土星人との合コンに参加した際にやっていたことで広く世間に知られた。その際、せんだは制作側に名前の使用を快諾した上、さらにはCM出演にも乗り気だった[20]。実際にはせんだ自身はCMに一切出演していないが、広告代理店からせんだに対して謝礼が支払われた[21][信頼性要検証]。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
2000年(平成12年)9月22日未明に飲酒運転で事故を起こし、業務上過失致傷及び道路交通法違反の現行犯で逮捕された。
その容疑は、記憶を無くす程の飲酒で泥酔だったにも拘わらず、乗用車(BMW)を運転して自宅に帰る途中に追突事故を起こした。同日の午前2時頃、東京都千代田区皇居外苑の二重橋交差点で、信号待ちをしていた乗用車へ後続のせんだが運転する乗用車が追突した。せんだは、その事故現場から逃走した為、約600m離れた路上で追突された会社員の男性に取り押さられた後、警視庁丸の内警察署交通課が業務上過失致傷及び道路交通法(救護義務)違反でせんだを現行犯逮捕した。
逮捕当時は、明らかに酒を飲んだ状態であり、送検時に道交法違反(酒気帯び)の容疑も追加された。同署の取り調べに対し、「逃げるつもりはなかった。安全なところまで車を移動させただけだ」等と供述している。逮捕後は、留置所で6日間拘留。起訴後の裁判では、運転免許証の取り消しと罰金刑の処分を受けた。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.