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日本の喜劇俳優(1921−1999) ウィキペディアから
由利 徹(ゆり とおる、1921年〈大正10年〉5月13日 - 1999年〈平成11年〉5月20日)は、日本の喜劇俳優。本名:奥田 清治(おくだ きよはる)。1950年代半ばからお笑いユニット“脱線トリオ”の一人として有名になり、解散後は喜劇役者、またコメディアンとして東北弁を駆使した言い回しや持ちギャグを用いてお茶の間を沸かせた[1]。
宮城県石巻市にて、大工の親方である佐々木庄治と母きよの子として生まれる(3男3女の6人兄弟の長男)。父は腕のいい大工として知られていた。幼少期から茶目っ気があり、父の宴会で芸を披露するなどしていた。現在の石巻市立門脇小学校へ入学すると、学芸会で毎年主役を演じた。1930年小学3年次にレビュー劇団を見て感動し、後日東京に行くため、家出して入団を希望するが父親に連れ戻されたため断念したことがある[1]。
もともとはピストン堀口に憧れてボクサーを目指していたが[2]、ムーランルージュ新宿座の芝居に憧れ、1940年(昭和15年)、18歳の時に家出して上京し、叔母の家に居候させてもらいながら梱包の仕事に就いた[1]。1942年(昭和17年)に伯父の知人の世話によりきっかけをつかんで[2]ムーランルージュ入団[3]。翌1943年(昭和18年)に大日本帝国陸軍に応召し、中国華北地方へ赴任[3]。
1945年(昭和20年)に帰国し、ムーランルージュに復帰[3]。その後ムーランルージュに森繁久彌が入団し、2人は同じ喜劇役者として共に演劇活動をしていた[1]。ムーランルージュが解散した1951年(昭和26年)の3月に帝国劇場公演『マダム貞奴』に出演[3]。しかし新宿セントラル劇場側から帝国劇場よりも高額なギャラを提示されてそれに乗り[4]、同劇場を振り出しとしてストリップ劇場のコントで活躍[3]。
この下積み時代の頃、由利は改名をしている。最初の芸名は「南啓二」(自ら名付けた)。その後「宇留木三平」となり、その後「ムリトウル」(「無理通る」に由来)にしようとしたが「この名前では大物になった時に困るだろう」として、一字変えて「由利徹」とした[5]。
1956年(昭和31年)に南利明・八波むと志とともに『脱線トリオ』を結成[3]。1961年(昭和36年)の脱線トリオ解散後は引き続き南利明や佐山俊二と組むなどしていたが、単独での活動が主となっていく[3]。単独での映画出演は1957年(昭和32年)には年間本数5本程度だったのが徐々にオファーが増えて、翌1958年(昭和33年)から1972年(昭和47年)頃までは年間10本以上(多い時で20本超え)も出演するようになる[1](出演歴について詳しくは下記・外部リンク「映画.com」などを参照)。 また1957年には、SKDの男役女優であった奥田明美と結婚し、佐々木姓から奥田姓に改名している[6]。
1973年(昭和48年)からは、『時間ですよ』(TBS系)や『寺内貫太郎一家』(同)など久世光彦演出・プロデュースによるテレビドラマの常連でもある。他にも多くの映画、ドラマに出演して活躍した。また、1979年(昭和54年)には、日劇公演『雲の上団五郎一座』の4代目座長に就任[7]するなど多忙を極めた。
1983年(昭和58年)、故郷・石巻市から市民栄誉賞を受賞。授賞式に際し凱旋帰郷した由利は、「学校の成績はビリで、警察にも補導された自分が…。」と感慨深げだったという[1]。
1991年(平成3年)4月、日本喜劇人協会会長に就任[8]。
1993年(平成5年)、勲四等瑞宝章受章[8]。由利について詳しい作家・演出家の高平哲郎[注 1]によると授章式の前に「由利は、『授章式で『オシャ、マンベ』のギャグをやりたくなった』とか『もし今度交通違反をして警察に見つかったら“この勲章が目に入らぬか~!”と言ってやろう(笑)』などと冗談を言っておどけていた」という[1]。
1999年(平成11年)5月20日午後9時30分、肝臓癌のため世田谷区池尻の古畑病院[1]にて死去。78歳没[9]。長男の裕二によると、「病院の医師からもういよいよダメだと告げられた時、親しかった赤塚不二夫さんをはじめ、駆けつけた見舞客の方たちが、隣室で酒盛りを始めたんです。その中で息を引き取った。父らしい最期でした」と語っている[1]。晩年は、新しい喜劇を演じられる役者として佐藤B作、柄本明、斎藤晴彦らを配し、自らの総決算的な公演を行うという構想を持っていたが、実現しなかった[2]。墓所は世田谷区森巌寺。
上京から2年後の1942年、ムーランルージュが空き時間に活動する野球部で捕手の欠員が出て困っていることを叔父経由で知った。入団のきっかけが欲しい由利は野球の経験がないにもかかわらず劇団員たちの野球部の練習場に向かった。由利はグローブでの捕球ができず投手の投げるボールを身体全体を使って必死に受けると、その根性を認められてムーランルージュの見習い研究生として採用された[1]。
南啓二の芸名で端役で舞台に出始めるが、採用から1年後の1943年に戦争で招集されて[注 2]陸軍に入隊すると、暗号要員として中国戦線に送られた。空襲により新宿座の劇場は焼失したが、由利は終戦後新宿に戻った後1946年10月から「小議会」と改名した旧ムーランルージュに復帰。再開後の公演では主役級の役が与えられるようになり、その後劇団の青年部筆頭に名を連ねる(芸名を宇留木三平にしたのはこの頃)[1]。
しかし、その後新宿でストリップ劇場が始まるなどして客足が流れたことで、1951年にムーランルージュは解散。由利はこれを機に心機一転を図るため、新東宝文芸部の先輩に「(先述の)ムリトオル」の芸名をつけることを相談すると、彼から「由利徹」と命名された。改名後は、ストリップ劇場の新宿セントラルでストリップの合間に行う寸劇の俳優となった。その後由利はここで「客を喜ばせる芸」を徹底的に磨き、八波むと志、南利明と出会うこととなる[1]。
新宿セントラルでの芸が評判になり始めた後、1956年3月に由利・八波・南の3人は日本テレビプロデューサーから「演芸番組の『お昼の演芸』で毎週15分間のコントをしてほしい」との依頼を受ける。これがきっかけとなり3人はお笑いユニット脱線トリオを結成し、同番組内での3人のコント・脱線トリオの「たそがれシリーズ」は大評判となった。由利は「後味の残る演技」と評され、コント内で一番人気を博したのが、頭部の中央だけ少し毛髪が残った禿ヅラで登場する由利だったという[1]。
脱線トリオとして翌1957年には、(当時テレビ局は4局しかなかった[1]が)ひと月40本ものテレビ番組に出演するほどの国民的人気となった。『お昼の演芸』に出演以降3人の知名度・人気が短期間で飛躍的に伸びたためトリオだけでなく個別の出演も激増し、由利には先述の通り映画の脇役などの出演依頼も相次いだ。このため1961年9月に結成5周年記念『脱線物語』の新宿コマ劇場公演を行い[1]、同年末に「脱線トリオ」を解散。
ストリップ劇場での経験から、「どんなお笑いもセックスにつながる。だから、可笑しいんだ」との持論を持ち始め、“エッチであるが下品ではないエロ親父”としての芸風を確立させた。なお、トーク番組では、一見すると猥談になりそうな話も由利の話術にかかると品のあるお色気話に抑えられ、楽しい笑いになったとされる。また下積みが長く芸能界で苦労したせいか、由利は生前「子供の涙は虹の色。喜劇役者の涙は血の色だよ」との言葉を残している[1]。
先述の作家・高平によると、終戦後に由利徹と森繁久彌は、ムーランルージュ新宿座で同じ喜劇役者として出演していた。その後森繁は上質なコメディアンから性格俳優に転身し成功を収めるが、由利はストリップ劇場で喜劇役者を続けた。そして「どんな笑いも全てセックスにつながる」という真理を悟った。由利は後年、大御所になってもその精神を忘れない喜劇役者であり続けた、と評している[1]。
由利の元弟子である三浦守(詳しくは下記)によると、由利は常に新しいネタはないかと考えている人だったという。鹿児島県出身の三浦は、同じく地方出身者(宮城県)である由利から「方言を武器にするにはまず標準語をきちんと話せないといけない」と助言された。他にも「芸は軽やかにやらねばならず、汗をかいてはいけない」ときつく言われたという[1]。
プロボクサーからお笑いタレントに転向し活躍した、たこ八郎の師匠としても有名[17]であった。弟子入りを申し出た際、たこが仙台の高校時代にボクシングをしていたことを知った由利は、「日本チャンピオンになったら弟子にしてやる」と告げた。するとその後たこは実際に日本フライ級チャンピオンになったため、ボクサー引退後由利に引き取られて一番弟子となった[1]。なお、たこは由利と同じく宮城県出身(由利は石巻市で、たこは仙台市)。
二番弟子は、後に日印友好協会事務局長となった三浦守[注 3][18][19](同姓同名の検察官とは別人)。弟子時代の三浦は、由利の自宅の一室で寝泊まりしていた[1]。他にも数人の弟子がおり由利の自宅に住み込みでいた模様(下記)。
そんな中、由利の弟子になり損ねたのが芸人・志村けんで、『志村けん論』の著者である鈴木旭が志村について以下のように語っている。「志村が高校生だったある日弟子入りを考えて由利のもとを訪ねたが、当時由利には既に弟子が4人いたため、『これ以上弟子は取れない』と言って断られた。その時志村が『喜劇役者を目指すには大学に行った方がいいですか?』と由利に助言を求めると、『その4年間は時間の無駄だ』と回答されたため大学には進学しなかった」とのこと[1]。志村はその後『ザ・ドリフターズ』に加入し、コメディアンとしてコント番組などで長年に渡って活躍[注 4]。
漫画家の赤塚不二夫は由利を敬愛しており、飲み友達として親交も深く[20][21]、著書『由利ちゃんの誰にもいうんじゃないぞ』には全6章各章の冒頭でそれぞれ2ページにわたる前書きを寄稿している。そして、赤塚は由利の最期を看取っていた[22]。
1965年に高倉健の主演映画『網走番外地』シリーズが始まると、由利は2作目に出演したのを皮切りに計13作品に出演。由利と高倉によるコミカルなアドリブ演技はシリーズの見せ場の一つとなった。また高倉は、“最も信頼を置く俳優”として由利を終生敬愛したという[1]p27
1970年代以降北島三郎や小林幸子と何度も舞台で共演し、1980年頃には千昌夫の公演『喜劇まつり』で欠かせない役者として出演していた[1]。
仕事で組んだことがある佐山俊二と親交があり、由利を慕っていた山本晋也監督は飲み友達として交流があった。また、レオナルド熊を弟分としてかわいがっていた。他にも、いつでも場の空気を和やかにさせる由利の人柄と幅広い芸風から、仕事で共演した多くのお笑い芸人、役者、スタッフなどから慕われた[1]。
似たようなコメディアン・俳優であり芸能界での後輩にあたる植木等[注 5]は晩年、白髪姿のままテレビや映画に出演していた。由利はこれに対し「白髪のままで出たりするな。髪を黒く染めてこい」と苦言を呈していた。しかし植木は由利に、「自然のまま出るのがなぜいけないのか?」と反発した。植木は元々由利に好意を持っていたが、このように役者観では対立していた部分もあった[23]。
松竹歌劇団に所属していた女性と結婚。由利は結婚前、“俺は森繁久彌と同じ早稲田大学出身”と偽り交際していたという。結婚後2人の男の子の父親となり、由利の長男は後年「父は子煩悩な人で、生前ほとんど叱られたことがありません」と証言している。長男は、「生前父は兵隊として中国へ行った時の話はよくしてくれたが、なぜか東京に出てくる前の故郷の話はほとんど話してもらえなかった」とのこと。由利はその後息子たちには芸能界入りを勧めず、2人とも会社員となったとのこと。なお、杉並区にあった自宅には由利はなぜか玄関ではなく、いつも縁側から出入りしていたという[1]。
普段の由利は“はにかみ屋”で、相手をまともに見て話せない一面もあった。また元弟子の三浦によると、普段はテレビなどで見せるキャラとは違い繊細で金にも細かい性格だったとのこと。長男によると「普段の父は暇な時は昼も夜も近所のラーメン屋で飲んでいる、どこにでもいるような普通のおじさんでした」とも言われている[1]。
ほか出演番組あり
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